第55話
数週間前、海の上、水の転移。間違いなく、村が嵐に見舞われた日の出来事だ。水害を防ぐ為、ロレッタが増水した河川の水をひたすら海へと送り込み続けた、あの夜。転移先の状況までは把握できていなかったが、突然現れた魔力の光を警戒して見張っていた人間がいたとしても、なんら不思議ではない。
「……はい。私が実行したものです」
「そうよね。魔法の使い方なんて、とうに忘れたものだと思っていたのだけれど、お前もちゃんとウィレムス家の人間だったのね。その膨大な魔力があれば、前線で敵の攻撃を防ぐくらいはできるでしょう?」
「…………」
「もちろん、お前自身が狙われて簡単に落とされたのでは、話にならないわ。だから、最低限の戦闘訓練はしてもらう。その上で、後はひたすら魔力の障壁を張って、うちの兵士たちの盾になりなさい。細かい軍事行動なんて、どうせ指示しても実行できないでしょうからね。倒れるまで魔力を放出し続ける、ただそれだけで良いわよ。倒れても、すぐに叩き起こすけれど」
相変わらず、ロレッタの安否など欠片も視野に入れていない言い分に、虚しさが募る。
ミランダは昔から愛国心が強く、国を守る為ならば、どんな手段でも躊躇わずに実行してきた。国の利益だけを追求し、そこに不要な私情や感情論は挟まない。使えるものを余すことなく使い倒し、目的までの最短ルートを突き進んで行く。たとえ、その過程で誰かが犠牲になろうとも。
しかし、これでミランダの要求は分かった。彼女がロレッタに望んでいるのは、こちらの意思によってその成果が大きく変動する類のものだ。それならば、交渉材料にする余地がある。
ロレッタは、大きく息を吸い込んだ。
「承知致しました。……ですが、そのご命令を遂行する代わりに、私からもお姉様にお願いしたいことがございます」
ミランダが眉を顰めた。周囲の兵士たちも、顔には出さないが動揺している。ロレッタがミランダに意見する、なんて光景を、これまで誰も見たことがなかったからだ。
「……お前が、私にお願い?」
「はい」
「生意気だこと。……聞くだけ聞いてあげるわ。何よ」
「ありがとうございます。……私が、お姉様の望む働きを成し遂げた暁には、私とリューズナードさんとの婚姻、並びに、それにまつわる契約を破棄していただきたいのです」
ミランダの表情が険しくなっていく。
「このひと月、共に生活をする中で理解致しました。あの方は、魔法国家へ仇なす意思など持ち合わせておりません。こちらから干渉しない限り、水の国へ危害を加えることもないでしょう。最初から、あのような契約など不要だったのです。……私のことはどのように扱っていただいても構いませんので、どうか、村にも、リューズナードさんにも、今後一切、関わらないでいただきたく存じます……!」
深く、深く、頭を下げた。
そもそも、魔法国家が魔法を使えない人間に執着する理由などない。自国から脱走されたところで、国の機密を握っているわけでも、居なくなると困るほどの重役を担っているわけでもないのだから。仮に反乱を企てられたとしても、魔法という絶対的な力の差がある以上、脅威にもならないだろう。
唯一、リューズナードは異例だが、その彼だって「魔法国家を侵略する意思はない」と断言していた。今さら武力による反乱を起こしたところで、彼らが長年に渡って与えられてきた傷は、何一つとして無かったことにはならないのだ。
――私たちは静かに暮らしていたいだけ。
――関わらないでいてくれれば、もうそれで良いんだ。
皆が口を揃えて零すこれらの言葉が、全てを物語っている。
これ以上、彼らから平穏を奪わないでほしい。
「……言いたいことは、それで全部?」
「は、はい……」
ロレッタが恐る恐る顔を上げると、同時にミランダが重く息を吐いた。
「やはり、お前は政治に関わらせなくて正解だったわね」
「え……」
「聞くだけ時間の無駄、話にならないわ。……考えてみなさいよ。どんな御託を並べたところで、最終的に、あの男は私との契約を呑んだのよ? それはつまり、他の国が同じ手段を使って契約を迫った場合でも、あの男は頷く可能性があった、ということ。そして、その国に兵役を課されたのなら、あの男は魔法国家にだって牙を剥くわ。かつて戦場に立っていたという経歴が、何よりの証拠でしょう。本人にその意思があるかどうか、なんて関係ないのよ」
「……!」
リューズナードが炎の国の兵として戦場に出ていたのは、妹や仲間たちに居場所を作る為だった。そして、この王宮まで乗り込んで来たのは、攫われたネイキスを救う為。仲間を守る為ならば、彼はたった一人で、どんな無茶だってしてみせる。そんな姿を、ロレッタも散々見てきた。
自身の命よりも遥かに大切にしている仲間を、人質に取ること。それが、彼を動かす最も合理的な手段なのだと、今なら納得できる。