第47話
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ふわふわ、ふわふわ。
視界の端に彼女の姿が映ると、なんとなく視線がそちらへ持っていかれる。そして、視界の中心に彼女の姿が収まると、数日前の夜に発現した奇妙な感覚が蘇る。
――家に帰ったら、明かりが点いていて。薄っすらと食欲を唆る香りがして。優しく名前を呼びながら、迎え入れてくれる相手がいる。
そんな、家庭によってはごく当たり前の光景が、当たり前であった試しなどない人生を送ってきたリューズナードは、返事の仕方が分からずに、ただロレッタを見詰めてしまった。
脳だか、心臓だか、自分の体のよく分からない部分で、ジリリ……と熱の灯る音がする。しかし、今度は一気に焼き尽くす炎のような熱さではなく、じんわり広がって侵食していく毒のような温かさだった。肩に入っていた力を削ぎ落し、鼻の奥をツンと刺激してくる、遅効性の猛毒だ。
育った環境柄、食に対して選り好みなどしないし、美味いと感じる範囲が他者より広い自覚もある。ただ、そんな自分の嗜好を除いたとしても、彼女が作る食事は美味いのだと思う。七年の月日を過ごす中ですっかり舌に馴染んだ、リューズナードが好きな、この村由来の味だった。
食事は冷めているのに、胃へ流し込む度、灯った熱の温度が上がっていく気がして、心身の具合がおかしくなる。貰える物は大人しく貰っておけば良い、なんて友人は気軽に言うけれど、冗談じゃない。こんな物を際限なく受け取り続けていたら、いつか自分は気が触れてしまう。
温い毒に侵されるような奇妙な感覚は、夜が明けても、日を置いても、完全に消えてはくれなかった。あの日以降、ロレッタがリューズナードの帰宅時間まで起きていることはなかったが、暗い室内の一番奥で、彼女の呼吸に合わせて上下する寝具の膨らみを見ていると、いつの間にか肩から力が抜けているのだ。
そんなことが、昼夜問わず起こるようになってきて、いよいよ自分の正気を疑った。あの奇妙な感覚は、やはり毒の一種だったのだなと改めて認識する。ただ、とても厄介なことに、解毒方法が分からない。
毒に侵された体を引き摺りながら子供たちの相手をしていたところ、
「なんか、今日のリュー、ふわふわしてる」
と言われた。雰囲気が柔らかいというか、穏やかというか、なんだか漠然と、ふわふわしているように見えるのだそうだ。
ふわふわ、とは一体。真意は謎だが、この毒に浸った状態を「ふわふわ」と呼ぶのが正しいのならば、リューズナードはあの夜、ロレッタの前でも終始ふわふわしていたことになる。彼女も自分を見て「ふわふわしてるな」と感じていたのだろうか。ふわふわ、ふわふわ。
対処できずにふわふわしたまま歩いていた時、同郷出身の友人であるゲルトに呼び止められた。
「なあ、リュー。ちょっと良いか?」
「なんだ」
「最近、ロレッタちゃんが遠出する支度をしてるらしいな。しかも、サラの話だと、行き先は水の国らしいじゃねえか。水の国って、ロレッタちゃんの故郷だろ? お前、何したんだ?」
大人しく聞いていたものの、それまでの文脈と最後の一言だけが上手く繋がらず、リューズナードの頭上に疑問符が浮かぶ。
「??? ……何故、俺に訊く?」
「お前に愛想尽かして、実家に帰ろうとしてんじゃねえの? 皆そう言ってるぜ」
「は……?」
「嫌われるようなことした心当たり、ないのかよ?」
「いや、俺は特に何、も……」
ふと、彼女と出会ってからこれまでの、自分の行いが脳裏を過った。
――睨んで威嚇した。足にペンを投げ付けた。刀を向けた。斧も向けた。黙って家事をやらせていた上に、用意された食事を突き返した。敵兵の腕を切り落として怖がらせた。握られた手を振り払った。
……心当たりが多過ぎて、もはや特定できないレベルである。
それに、だ。思わずスルーしそうになってしまったが、ロレッタが水の国へ行こうとしている、なんて話も初耳だった。
ここへ来て以来、彼女にはミランダと連絡を取り合ったり、不審な行動を取ったりしているような様子は一切ない。彼女は姉の指示で動いているわけではないはずだ。ということは、自発的に戻ろうとしているのだろうか? 今さら、どうして。なんの為に。
そして、日常生活の困り事だけでなく、そんな重大なことまでも、彼女は自分に言ってこないのか。国へ帰る計画自体は、他の住人たちには話していたのに。恐らく最も事情が伝わりやすいであろう、自分にだけ。
……モヤモヤする。
険しい顔で黙り込んだリューズナードを見て、ゲルトがため息を吐いた。
「……お前、さては相当やらかしてるな? 大事になる前に、謝ってこいよ」
「……謝る……」
「悪いことしたら、ごめんなさい、だろ? そんなの、子供たちだってできるぞ。お前はもう、いい大人だろうが。ったく……そんな怖い顔ばっかしてるから、ロレッタちゃんが何も言い出せなくなるんだよ。反省しろ」
「! …………」
怖い顔、とは一体。彼女の前で、今まで自分はどんな顔をしていたのか。反省しろと言われても、自覚がないのでどうにもならない。しかしそれが、彼女が何も言ってこない原因になっているのならば、やはりこちらが「悪いこと」をしていた、ということなのだろうか。