第42話
黙り込んで考えていると、フィリップの後方に続く道の先から、ウェルナーが歩いて来た。
「ああ居た、フィリップ! 引き出しが外れた、って言ってた箪笥、直してやったから取りに来い」
「あ? わざわざ顔出しに来るんだったら、ついでに持ってきてくれりゃあ良かっただろ」
「男の家への配送サービスなんて、受け付けてねえよ。……って言うか、お前ら何してんの?」
「分からん。何してんだ、こいつ?」
「…………」
訝し気な視線が二つに増えたが、リューズナードは構わず考え続ける。そんな様子を見たウェルナーが、ふと、何かに気付いたような顔をした。
「……悪い、フィリップ。ちょっとこいつ、連れて行って良い?」
「おう。もうわけ分かんねえから引き取ってくれ」
「よし! 行こうぜ、リュー」
「あ、ああ……」
肩を掴まれてずるずる引きずられ、人のいない地点まで連行される。そしてようやく立ち止まったかと思えば、彼は目の前に自身の右手を差し出してきた。
「俺ともしようぜ、握手」
「……なんだ、急に」
「楽しそうだったからさ、俺も混ぜてよ。はい」
「…………」
自分のことは棚に上げて不審に思いつつ、リューズナードは大人しく彼の右手を握った。だが、これも違う。なんとも思わない。
もちろん、最も付き合いの長い友人の一人なので、安心はする。祖国で苦楽を共にした友人たちがくれる温かさは、リューズナードがこれからもここで生きていく為に無くてはならないものだ。ただ、それと昨日の不思議な感覚は、完全に別物だった。
再び眉間に皺が寄ったところで、ウェルナーがニヤリと笑った。
「どう? ゆっくり眠れそう?」
「!? お前、なんで、それ……!」
「昨日、炊き出しの日だったのにロレッタちゃんが来なかったから、呼びに行ったんだよね。そしたら、二人で仲良く寝ちゃってて、起こせなかった」
「……っ」
炊き出し。そう言えば、そうだったかもしれない。夜通し動いていた上に、仮眠と言う名の昼寝をしたせいで、日にちや時間の感覚が狂ってしまっていた。別に疚しいことをしていたわけではないが、他者の目から自分たちの姿はどのように映っていたのだろう。
「で? お前は朝からまた、人肌恋しくなっちゃったの?」
「いや、そういうわけじゃ……」
「気持ちは分かるよ? 俺だって奥さんの手、好きだもん。でも、だったら俺たちじゃ代わりにはならないだろ。自分の奥さんに頼めよ」
「違うと言っている」
「この時間なら、サラさんの所に居るんじゃねえ? ほら、行くぞ」
「話を聞け、おい!」
喋り始めると止まらなくなる年上の友人の圧に押し負けて、またしてもずるずると連行されてしまった。
やがて観念して自力で歩き始めたリューズナードだったが、手持ち無沙汰になると自分の右手へ視線を向けてしまう。その様子を、ウェルナーが隣で楽しそうに茶化してくるのも不服である。しかし、口では敵わないのでどうしようもない。
サラの自宅と畑が見えてきた。家主やその子供たちと一緒に、今日もロレッタが農作業に精を出している。どうやら手分けして畑に肥料を撒いていたらしい。
「ロレッタちゃん、おはよう!」
「おはようございます、ウェルナーさん。リューズナードさんも」
「……ああ」
一瞬、ドレスの裾を持ち上げるような仕種をしかけて、すぐにペコリと頭を下げる動作へ切り替えるロレッタ。未だに王族としての習慣が抜けきらない部分があるようだ。箱入りの王女が、よくもまあ、こんな田舎暮らしに順応できたものだと感心する。
ウェルナーが止まらず歩き続ける為、仕方なく横に付いて行く。すると、ある程度進んだところで、抱えていた肥料の袋を足元に置いたロレッタが、リューズナードの前まで駆けて来た。そして、
「……リューズナードさん」
「! ……なんだ」
「不躾で申し訳ありませんが、失礼致します」
神妙な顔付きで断りを入れ、行き場を無くしていたリューズナードの右手を、自身の両手でそっと包んだ。
「!?」
混乱するリューズナードを他所に、ロレッタは真っ直ぐ、手だけを見詰めている。それから、「良かった、もう冷たくないわ」と呟いて、ホッとしたように笑った。
リューズナードがロレッタの笑顔を正面から見たのは、彼女が倒れて以来、これで二度目になる。
(……綺麗だな)
前回同様、ぼんやりとそんなことを思った、その瞬間。まるで何か、おかしなスイッチでも入ったかのように。
戦う為に洗練してきた神経が、己の右手から伝わる情報を、余すことなく全て拾い上げてしまった。
小さくて、細くて、華奢で、繊細で、柔らかくて。
傷付けるのではなく一緒に守ろうとしてくる、奪うのではなく与えようとしてくる、友人や仲間たちとは違う安心をくれる、どこまでも優しい女性の手。
――温かい、なんてものじゃない。
血管からマグマでも流し込まれたみたいに、凄まじい灼熱が全身へ伝播する。これまで受けたどんな炎魔法よりも熱くて、穏やかな熱が、思考回路を焼き切っていく。
生まれて初めての経験である。リューズナードは、自身の頬から首までを真赤に染め上げ、その場でガチリと固まってしまった。
「……先日は、出過ぎた真似をしてしまい、申し訳ありませんでした。ですが、私は決して、あなたから何かを奪いたかったわけではないのです。ただ、もっと、ご自分のことも大切にしていただきたくて――」
目の前でロレッタが何か言っている気がするが、まともに頭に入らない。隣でウェルナーが肩を震わせて笑っているが、反応する余裕がない。今はただ、自分の右手が燃えるように熱い。
「……あの、リューズナードさん?」
こちらを見上げて、窺うように名前を呼ばれる。長くて呼びづらい、という明快な理由から同郷の友人たちが呼び始め、いつの間にか他の仲間たちへも広まっていた、リューという愛称。今では全員がその愛称を使うので、「リューズナード」ときっちり呼ぶのは、ロレッタ一人だけだ。その音すらも、熱に変わる。
「っ…………分、かった、から……放せ……」
かろうじて口から出てくれたのは、それだけだった。なんとか聞き取れたらしいロレッタが「申し訳ありません……」と言って手を握る力を緩めたので、勢いよく振りほどいてその場を後にする。とうとう噴き出した友人の笑い声が、実に腹立たしい。
「リュー、顔赤いな?」
「りゅー、まっかっか!」
駆け寄って来た子供たちが足元で囃し立ててくる。いつもなら、もっとしっかり相手をしてやれるのに、その時のリューズナードには、
「うるさい……!」
と、小さく返すので精一杯だった。
その後しばらく、先日とは違う理由で乱れた脈拍を落ち着ける為、またひたすら歩き回る破目になってしまったのだった。