第37話
昼時は過ぎたが、夕方と呼ぶにはまだ早い時刻。泣き腫らした赤い目を擦りながら、ロレッタはウェルナーの元を後にした。俺が喋ったこと、リューには内緒ね。口元に人差し指を添えつつ頼まれた約束事には、何度も頷いた。
気持ちの整理がしたくて避難所へ戻ると、とても珍しいことに、リューズナードも戻っていた。壁に背を預けて胡坐をかき、両腕を前方へ投げ出して目を閉じている。昨夜はずっと外にいたようなので、仮眠をとりに来たのだろうか。
近付いても、特に反応がない。普段は人の気配に敏い彼であっても、さすがに眠っている時は、その限りではないのだろう。思えば、眠っている姿を見るのは初めてだ。同じ家に住んでいるのに、改めて異様な関係だなと実感する。なるべく音を立てないよう気を付けながら、彼の右隣に腰を下ろした。
ひたすら何かと戦い続けてきたリューズナードの人生に、心穏やかに眠れた夜は、果たしてどれだけあったのだろうか。あんな悲愴に満ちた表情を浮かべるくらいだ、きっとまだ、完全に立ち直ることはできていないのだろう。元々、脆かったわけではないけれど、一度粉々に砕けてしまった心が、未だに回復しきっていない。
彼とは真逆と言っても差し支えない人生を歩んできたロレッタに、そんな彼の心を言葉で癒やすのは、無理だと思った。何を言っても、陳腐な綺麗事や絵空事になってしまう。
だからロレッタは、彼の右手に触れた。必死に戦い続けてきた、大きくて硬い、傷だらけの手。
(冷たい……)
せめてこれ以上、一人で凍える夜が訪れないように。冷えたその手を自身の両手で包み込む。
「……私は、あなたからも、この村の皆様からも、何も奪うことなど致しません。あなたには穏やかな日常が……平和が似合います」
迫害も戦争もない世界で、幸せに生きてほしい。漠然と、そんなことを思った。
リューズナードにとっての幸せがどんな形なのかは、ロレッタには分からない。この村の恒久的な繁栄かもしれないし、祖国との和解かもしれない。分からないけれど、ただ一つ、はっきりしていることがある。
(私と……水の国と繋がったままでは、いけないわ)
魔法国家との強制的な繋がりを持ったままでは、彼の心が落ち着くことは、きっとない。真に彼の幸せを願うのならば、まずは自分との縁を完全に断ち切るべきなのだ。
――ミランダが突き付けたあの契約を、破棄する手段を探そう。
ロレッタは強く決意した。