第29話
以前、ロレッタは避難所にたどり着く前に川へと駆け出し、その後倒れてリューズナードの自宅へと送還されているので、避難所を利用した経験がない。壁で囲われた村の敷地の端に設置されたそこへ、この日初めてやって来た。
石垣の土台で推定二メートル程度の高さを確保し、その上に広めの建物が建設されている。すぐ隣には、食料や資材の備蓄庫も併設されていた。高台と呼ぶには些か心許ない気もするが、そもそも周囲が森であり、洪水被害が起こりにくい立地にあるので、この程度でも十分に身を守れるらしい。それなりの深さがある外の川を氾濫させるほどの嵐が発生すること自体が、相当なレアケースだったのだ。
石の階段を上って扉を開くと、中には住人全員がギリギリ雑魚寝できそうなスペースに、寝具、暖炉、かまど、流し台などが並べられていた。有事の際、一時的に利用される避難所なのだから、最低限の生活ができる程度の物資しか用意されていないはずだ。しかし、その広さや整備の行き届いた設備たちを見て、リューズナードの自宅よりも豊かな暮らしができるのではないか、などと失礼なことを考えてしまうロレッタである。
よく見れば、室内の隅のほうにロレッタが使用している衣装箱と、リューズナードが私物を押し込んでいる水瓶が置いてあった。家屋を改築する前に移動させてくれたのだろう。二人分の荷物がこれだけで済むというのも、いかがなものなのか。改めて、よく生活できていたな、と妙な感心を覚えた。
暖炉に火を灯して光源を作り、揺らめく光を頼りに寝具を広げる。リューズナードの分も用意しようかと考えたものの、二人で使うにはさすがに広すぎるこの空間で、二組の布団をどう並べれば良いのか迷った為、やめておいた。
普段は囲炉裏を挟んで対岸にそれぞれ寝ているが、ここでは余計な障害物が無いので、極端に距離を取ることも、ぴったりと寄り添うこともできてしまう。彼が不快に思わない適切な距離感を見極められる自信がないロレッタは、潔く本人の采配に任せようと決めたのだった。
火を消して、いそいそと布団へ潜り込む。そっと瞼を落とせば、微かな木々の騒めきや、虫の鳴く声が、いやにしっかりと聴こえてきた。村境に位置する場所だからだろうか。外の自然が織り成す環境音がつぶさに届いて、なんだか不思議な心地がする。
再現性のない背景音楽を子守歌に、ロレッタはゆっくり意識を手放した。
翌朝。普段通りの時間帯に目を覚ましたロレッタは、ぼんやりと辺りを見渡して、そう言えば避難所で眠ったのだった、と思い出した。いつもと同じく同居人の姿はすでになかったけれど、彼が使用している水瓶の上に、マティたちが作った草花の輪飾りが置いてあるのを見て、朝から穏やかな気持ちになる。昨日はバラバラに村へ戻ってきたのでその後の様子は把握していなかったが、ちゃんと受け取ってくれたようで安心した。
身支度を整えて村へ向かうと、改築を手掛けてくれている住人の一人に、明るく声をかけられた。
「おう、ロレッタちゃん。よく眠れたかい?」
「おはようございます。はい、とてもよく眠れました」
「それは良かった。あと四、五日もあれば終わるから、もう少し待っていてくれよな」
「承知致しました。お怪我などなさらないよう、皆様もお気を付けください。後ほど、差し入れをお持ちしますね」
本来、家屋の改築が一週間足らずで終わるはずはないのだが、この村ではライフラインを停止または開通させる工事が要らない為、それらを除いた最低限の作業量で済む。建物の外側を建築する者と、設備を組み立てて中へ運び込む者とで上手く分業すれば、数日程度で片付くのかもしれない。建築の知識が乏しいロレッタに、詳しい作業工程は想像できないので、言葉に甘えて大人しく待っていようと思った。
「はは、ありがとうよ。リューの奴、ほんとにいい嫁さん貰ったよなあ。ウチのかみさんと交換してほしいくらいだ。怪我に気を付けて、なんて、言われたことねえや」
「い、いえ、そのようなことは……」
気風の良い住人たちとの会話も慣れ親しんだものだが、このような話を振られた時だけは、未だにどう返していいのか分からない。曖昧に笑って、仕事へ向かう背中を見送った。
一日が終わり、村に夜の帳が下りる。避難所の床掃除だけを簡単に済ませたロレッタは、昨夜と変わらない流れで就寝準備を整えた。目を瞑ればまた、心地の良い環境音が聴こえてくる。
ただ、その日は昨夜と異なる点があった。ひたすら穏やかだった環境音の最中に、まるで雷でも鳴っているかのような、不自然な異音が混ざり込んでいたのだ。