第19話
水田で農作物を育てるには、安定した水の供給が不可欠だ。この村では、外を流れる川を分岐させて導線を整備し、用水路として活用している。源流となる川が氾濫した場合、用水路へも大量の水が勢いよく流れ込み、村が大惨事になってしまう。
川沿いには堤防を設けて高さをつけているが、今回の大雨による増水で水位が上昇し続けており、越えてしまうのも時間の問題となっているらしい。必死に走りながら状況を聞かされたロレッタは、背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
「村の端に避難所があるから、そこまで移動するぞ! まだ走れるか!?」
「は、はい……!」
村では他の住人たちも一斉に避難を始めていたようで、あちらこちらの家屋から飛び出してきた人々が、同じ方向へ向かって走っているのが見えた。皆、避難所を目指しているのだろう。子供や高齢者、怪我人を誘導している者の姿も確認できる。
ただ、どれだけ目を凝らしても、その中にリューズナードの姿が見当たらない。
「あ、あの……リューズナードさんは……?」
「あいつは水門だ。他の奴らと協力して、川と用水路を分断しに行ってる」
「え!? 川の近くは、危険なのでは……!?」
「危なくても、誰かがやらなくちゃならないんだ。それに、こういう時、リューは真っ先に飛び出して行っちまう。周りが止めても聞きやしねえ」
川と用水路の分岐点には水門があり、その開閉で村へ供給する水の量を調節している。嵐が猛威を振るう今、そこは最も危険な地点だと言っていい。
足を滑らせて川へ呑まれたら? 強風で転倒して体を打ち付けたら? たとえ村が無事で済んでも、犠牲が出てしまったのでは意味がない。
(…………)
村を襲っている脅威は、大雨、洪水、強風、増水、氾濫……つまり、ほとんどが水害だ。
自然災害は人知を超えた脅威であり、人間にできる抵抗などたかが知れている。日頃からどれだけ対策を講じていたとしても、完全に無力化することは難しい。……普通の人間なら。
しかし、数ある天災の中でも唯一、水害であれば、ロレッタには対抗できる術がある。そして今、この村でそれができるのは、自分だけなのだ。
ロレッタの足が止まった。
「ロレッタちゃん、どうした? 怪我したか!?」
「……私はここまでで大丈夫です。他の方の誘導を優先してください」
「え? いや、でも……」
「大丈夫です、ありがとうございます!」
無知で無力な自分を温かく受け入れてくれた、この村の人々役に立ちたい。その気持ちだけを胸に、ロレッタは水門を目指して駆け出した。
水門と言っても、村にあるのは国単位で製造・管理されているような立派な代物ではない。周辺で採集できる素材をなんとか加工し、水門としての最低限の役割を果たせるように形を再現しただけの、粗削りな設備である。自動で開閉可能な機能など搭載できるはずもなく、操作の際は必ず人力が必要となる。
視界が悪く、手も足も滑る苛烈な環境の中、男たちは三人掛かりで用水路の門を塞いだ。門の裏側は、麻の袋に土を詰めた土嚢を幾重にも積んで補強してある。汗だか雨だか分からない水が、全身に纏わりついて気持ち悪い。体力の消耗も驚くほど早い。それでも、作業を止めるわけにはいかなかった。
「はあ、はあ……水門はひとまずこれでいいだろ。吐水路側も閉じたから逆流はしねえだろうし」
「後は、堤防の淵にも土嚢を積んで……」
「ああ。残りは俺一人でやる。お前たちは避難してくれ」
毅然とした態度で言い放ったリューズナードに、仲間たちが食って掛かる。
「はあ!? 何言ってんだ! こんなの一人でできるわけねえだろ!」
「一人で作業続けてもしものことがあったら、助けも呼べねえ! ふざけてんのか!」
「……すまない、言い方が違った。お前たちは、自分の家族のところに付いていてやれ」
「!」
男たちが言葉を詰まらせる。
彼らはそれぞれ、高齢の母を連れて祖国から逃げ出して来た者と、この村へ来てから新しい家庭を築いた者だ。両者とも、大切な家族と穏やかな日常を過ごせる幸せを噛み締めながら日々を生きているし、その様子は村の誰もが知っている。
「こんな時こそ支えが必要だ。他の誰も、代わりはできない。お前たちだって心配だろ」
「それは……そうだが……っ」
「だったら、お前も一緒に――!」
共に避難しよう、と伸ばされた腕を、リューズナードが拒絶した。
「俺には、失いたくない家族なんて、もういない。……早く行け!!」
いつになく荒い語気に、リューズナードの意思の強さが窺える。どれだけ危険に見舞われようと、自身が避難するつもりは毛頭無いのだろう。きっともう、何を言っても彼は動かせない。付き合いの長い仲間たちが、それを悟るのは容易なことだった。
水害時における土嚢の役割は、止水のための応急処置だ。重量のある布袋で壁を築き、浸水を防ぐことを目的としている。堤防の上に重ねて固定すれば、高さの嵩増しもできる。
ただ、土や砂利がみっちりと詰まった布袋の重量は、一つにつきおよそ数十キログラム。それを広大な川に沿って積み上げていく作業が、人間独りの力で簡単に終えられるはずがない。
「だから、お前も来いって――」
「大丈夫です。お二人は避難所へ向かってください」
「!?」
ロレッタが到着したのは、そんな応酬が繰り広げられている最中だった。