第1話
形ばかりの婚儀を終えたロレッタは、リューズナードと、もう一人の少年と共に馬車へと押し込まれ、慣れ親しんだ故郷を後にした。それから揺られること、およそ三日。会話らしい会話もない旅が終わり、ようやく目的地へと辿り着く。
城壁と呼ぶにはあまりに質素な石の壁に囲われた、小さな農村。森と川で覆い隠されたそこは、大陸全土を描いた地図にも載らないような、貧寒とした土地だった。
何も言わずに馬車を降り、勝手知ったる、といった様子で歩き出すリューズナードの背中を、ロレッタはおろおろしながら追いかける。村へ入ると、異変を悟った村人たちが様子を窺うようにこちらを見ていた。しかし、身内であるはずの男に、声をかける者はいない。ロレッタが村人の立場だったとしても、あからさまに不機嫌な形相で練り歩く男に声をかける勇気はなかっただろう。
かくして到着した村の最奥には、村人たちのものと同等か、下手をすればそれらよりも質素な家屋が、ポツンと建っていた。建付けの悪い横開きの玄関を開くと、この日初めて、リューズナードがロレッタを見た。
「……入れ」
「は、はい……」
木の板を敷き詰めただけの床に、寝床と囲炉裏。そして、ほとんど使用されていなさそうな台所。横に置いてあるのは水瓶だろうか。見渡す限り、家の中にはそのくらいの物しか見当たらなかった。王宮で不自由なく育ったロレッタからすれば、もはや何も無いのと変わらない。
「俺の家だ。これからお前は、ここで暮らしてもらう。不本意ではあるが、わざわざ住む場所を用意してやるような余裕も義理もない。我慢しろ」
「はい……」
「必要な物があれば言え。お前の快適さなんて知ったことじゃないが、あのふざけた契約を破棄できる手段が見つかるまでは、お前にも五体満足の体でいてもらわないと困るんだ」
「……はい、承知しております」
ふざけた契約、というのは、ロレッタの姉・ミランダが彼に突き付けた、婚姻に伴う諸々の命令を指しているのだろう。静かに目を伏せながら、ロレッタは三日前の出来事を思い返した。
ミランダに珍しくも呼び出されたロレッタは、久しぶりに謁見の間へと足を踏み入れた。たった一つの玉座へ当たり前に腰かけるミランダを見届け、自分はせめて邪魔にならないようにと、部屋の隅に立って待機することを選択する。特に批難の声は飛んで来なかったので、間違ってはいなかったのだろう。
母親を早くに亡くし、数年前に国王たる父親が病床に伏せてからというもの、水の国の政治はほとんどミランダが一人で執り仕切ってきた。美しく狡猾な姉は、利益の為ならば残虐な采配を振るうことも厭わない、何とも為政者向きの性格をしている。ロレッタには到底、真似できない手法で、この国の発展に貢献してきた。
一方、姉のような美貌も才覚も持ち合わせていないロレッタは、「第二王女」という半端な肩書きだけを持て余しながら、ひたすら王宮に閉じこもる生活を送っている。跡取りには長女がいれば良いし、政治で助力できるようなこともない。母親譲りの膨大な魔力も、今のところ主だった使い道は見当たらない。
華々しい社交界に顔を出すことも許されず、優秀な姉の影に隠れてひっそりと息をしている名ばかりの王女。それが、王宮でのロレッタという存在だった。
そんな自分が、どうしてこの場に呼び出されたのか。詳しい事情は何も知らない。珍しい客人が来るから立ち会うように、と。たったそれだけの言伝を家臣から聞かされただけだ。内心ではもちろん訝しんでいるものの、拒否する権利は与えられていない。いつになく上機嫌な様子の姉が、なんだか不気味に見えた。
しばらく待機していると、何やら廊下が騒がしくなった気がした。兵士が誰かを呼び止めようとしている声が聞こえる。
しかし結局、その兵士の声は相手に聞き入れられなかったようで、ロレッタは荘厳な扉が荒々しく蹴破られる瞬間を初めて目撃することになった。
扉の向こうには、腰元に一振りの刀を携えた青年が立っている。凛々しく整った顔立ちに見えたが、盛大に顔を顰めているせいで、だいぶ人相が悪い。
尚も取り押さえようとする兵士を意にも介さず、青年は部屋の中央まで勝手に進むと、地を這うような声で尋ねた。
「……ミランダ・ウィレムスとは、お前か?」
男性の、明らかに怒りを滲ませた声音に慣れていないロレッタは、ビクリと体を跳ねさせた。しかし、正面で受け止めたミランダは全く堪えていないようだ。
「ええ、そうよ」
「そうか」
短いやり取りの後、青年は携えていた刀を鞘から引き抜き、その切っ先を迷わずミランダへと向けた。
「うちの村の子供が世話になっているそうだな。その首を刎ね飛ばされたくなければ、今すぐ解放しろ」