第73話
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ミランダが軍議室の扉を開くと、留守を任せていた兵士たちが揃って膝を折り、頭を垂れた。それらを一瞥することもなく、カツカツカツ……と規則的な足音を立てながら、部屋の奥へと舞い戻る。国境付近で繰り広げられる戦の喧騒は、まだこの王宮までは届いていない。
炎の国の騎士団長ナディヤ・ベルネットと交戦したアドルフは、瀕死の重態で発見されたとの報告を受けている。全身に火傷や裂傷を負った上、脇腹も抉れていたらしい。一命こそ取り留めたものの、しばらく前線への復帰は不可能だろう。ナディヤを足止めし、一時的にでも前線から後退させたのだから、怪我人にしては良くできた働きであるように思う。
兵士の一人がミランダの元へと歩み寄り、跪いた。
「ミランダ様、よくぞご無事で」
「戦況を報告しなさい」
「はい。アドルフ団長との交戦後、ナディヤ・ベルネットは前線から離脱しました」
「そこまではすでに報告されているわ。その先を訊いているのよ」
「失礼致しました! 歩哨によれば、ナディヤ・ベルネットは複数名の部下を連れて国境付近の本陣まで撤退。その後、炎の国方面へ馬を走らせて行ったとのことです」
「……この戦争から手を引いた、と言うの?」
「断定はできませんが、そのようにも受け取れる動きだったようです」
「…………」
ナディヤが負傷したのは知っている。アドルフが繋いだ通信機から、彼女の絶叫が響いてきたからだ。しかし、炎の国の医療班は優秀である。治癒魔法で傷を塞ぎ、休息をとって魔力の回復を待てば、再び前線へ繰り出すことも十分に可能だったはず。それなのに、好戦的な彼女が自ら戦線離脱を選ぶものだろうか?
「続けて、市街地での戦況をご報告致します。国境付近の男爵領はほぼ陥落し、該当エリアで戦闘にあたっていた我が軍の兵士たちは撤退、本陣と合流しました。手筈通りに水路を跨ぐ橋を全て落として敵の進軍ルートを絞り、現在も応戦しております。ただ、現地からの報告では、何やら敵兵が不自然な動きをするようになったとのことでして……」
「詳しく話しなさい」
「はい! 兵士たちの一部が進軍を躊躇ったり、連携の取れていない不規則な動きを見せたり、場合によっては逃げるように引き返したりする姿も目撃されているそうです」
「……ナディヤ・ベルネットが撤退したせいかしら。指揮官が不在になったことで、統率が取れなくなったのかも知れない。その場合、引継ぎができていないことを考えると、彼女の撤退が炎の国軍にとって予期せぬ事態だった可能性も高いわね。切り崩すタイミングを逃さないよう、慎重に戦況を見極めましょう」
「はい!」
進軍開始後、真っ直ぐに王都を目指さず街の破壊を優先していたこと。ナディヤが撤退したこと。敵兵の動きに迷いらしきものが生じていること。炎の国の意図は未だ読めない部分が多い。ここへ来て、また何か仕掛けてくるつもりなら、こちらも早急に手を打つ必要がある。蘇生魔法が生きている限り敵の絶対値を減らせないのが、やはり厄介だった。自軍の兵士は時間経過と共に数を減らされているというのに。
机上に並べられた戦力図では、炎の国側が優勢である。敵兵に見立てた赤い駒を睨みつつ、今度はミランダが情報の共有を始めた。
「……アドルフが繋いだ通信機を介して、ナディヤ・ベルネットと言葉を交わしたわ。あの口振りだと、私やお父様を戦場へ引き摺り出すことも狙いの一つにしているようね」
「ミランダ様を煽り立てるような言動をしてきた、と? なんと不敬な……。して、ご出陣なさるのですか?」
「するはずがないでしょう。敵の戦略を見通せない以上、わざわざ思惑通りに動いてやる必要などないわ。だからこうして、戻って来たのよ」
「失礼致しました!」
――兵士の命よりも国の守護を選んだ冷酷無慈悲な王女様は、いつになったら出て来てくれるのかな?
――せっかくここまで来たのに、王族の皆さんに挨拶もなく帰ったら、とんだ無礼者だよ。
――期待してますよ、王女様。
ナディヤの言葉は明らかに王族の参戦を煽るものだった。彼女自身はあの程度の安い挑発でも飛び付くのかも知れないが、生憎ミランダはそこまで短絡的な思考など持ち合わせていない。
自分や父が戦闘に加われば、戦局の優劣にかかわらず市街地の被害拡大は免れないだろう。元々、炎の国兵たちも王都への進攻より街の破壊を優先している様子だった。よほど破壊行為を望んでいると見える。水の国の都市が壊滅することによって生じる、炎の国側のメリットとは――。
「? ……ミランダ様、本陣第三中隊より通信が入った模様です」
「繋ぎなさい」
「畏まりました」
兵士の一人が携帯していた通信機に、受信を報せるランプが灯る。ミランダにも聞こえるよう近くへ移動し、兵士が通信を繋ぐと、酷く慌てたような声が飛び込んできた。
「こちら、本部」
『こちら第三中隊! ミランダ様はお戻りか!?』
「聞いているわ。状況を報告しなさい」
『はい! 数刻前より、視認できる限り全ての炎の国兵の体から赤い魔力の光が放たれ、霧散するという現象が各地で目撃されております! それ以降、致命傷を負った炎の国兵に対する蘇生魔法の発動が確認できなくなりました。敵陣も混乱し、撤退を選ぶ者が増えている模様です!』
「……どういうこと?」
『詳細は不明ですが、取り急ぎ現場の見解と致しましては、なんらかの理由で炎の国兵にかかっていた蘇生魔法が解除されたのではないかと……』
報告を聞き、軍議室が騒然となった。炎の国とはこれまでも幾度となく戦ってきたが、このような報告を受けたことなど一度もない。ミランダは静かに目を閉じて思案する。
ナディヤの撤退、兵士たちの混乱、そして蘇生魔法の解除。ほぼ間違いなく、炎の国で何かが起きている。それも、戦争に注力している場合ではなくなるほどの何かが。
原因を今すぐ突き止めることは不可能だ。しかし、現状を打破する好機は、今。
「……別動隊の動きは?」
「海沿いから回り込んでいた炎の国の別動隊と交戦中。敵に増援が来る気配はなく、こちらが優勢とのことです!」
「そう。敵を潰したら、別動隊はそのまま炎の国へ向かわせて頂戴。異変があればすぐに報告するよう伝えて。先ほど、敵陣を切り崩すタイミングを窺うと言ったけれど、撤回するわ。――全軍、水の国の地を荒らす賊共を直ちに殲滅しなさい!」
「「はい!」」
『はい!』
兵士たちがすぐさま通信機を取り出し、各地の戦線で命を削る同胞たちへ指示を飛ばし始めた。連携を崩さないよう鍛え上げられた水の国兵たちは、全幅の信頼を寄せる指揮官の下、総力を上げて敵の殲滅へと動き出す。
ミランダの号令から、丸一日後。自国へ攻め込んで来ていた炎の国騎士団を残らず壊滅させ、明け方の水の国に高らかな勝鬨が上がったのだった。