第65話
半ば理性を手放しかけた状態であっても、「人質」や「王女」といった言葉はリューズナードの意識の奥底へ届く。ツェーザルの体から刀を引き抜いた体勢で静止し、怒りと殺意に満ちた瞳を兵士へ向けた。ヒッ! と小さな悲鳴を漏らした兵士は、その手に通信機を握っている。ロレッタを監視する王子か兵士と連絡を取る為の物だろう。
ロレッタも、この国の王太子殿下であるレオンも、およそ戦闘向きの人間ではない。能力ではなく、性格の問題だ。ロレッタは優し過ぎて、人を傷付けることを恐れている様子だった。一方レオンは主体性や判断力が欠如している為、自らの意思で積極的に戦闘へ参加することはしないだろうと思う。そんな二人が、直接戦わざるを得ない状況に身を置かれたら、果たしてどうなるのか。
王族同士の戦闘ともなれば、きっと他の兵士たちには介入できない激甚な戦いになる。その結果、最後まで立っているのがどちらなのか、リューズナードにはハッキリとした予想ができなかった。ロレッタは負けない、という確信が持てないのだ。先ほどの兵士の脅しを、無視することができないのである。
忌まわしい記憶ばかりがこびり付く炎の国の地で、この上さらに、ロレッタまで失うような事態になったら。もう、立ち上がれる気がしなかった。
リューズナードが動きを止めた隙に、蘇生を終えて目を開いたツェーザルが、手のひらから巨大な火炎弾を撃ってきた。障壁のお陰で体に到達こそしなかったものの、至近距離で放たれた強い衝撃は逃がせない。ダメージの蓄積で踏ん張りの利かなくなっていた体が、後方へ押し返される。
刀を握ったまま、数歩よろけて尻餅をつくリューズナード。体勢を立て直す間もなく、ツェーザルが目の前に立ち塞がった。
「……非人を生かしておく価値はないのだということが、よく分かりました。お前も、お前の仲間とやらも、この国に残っている小石共も、全て根絶やしにして差し上げましょう」
眼前に両手剣の切っ先が向けられる。ブレードに宿る凄まじい熱が、障壁をすり抜けて襲い来るようだった。視界の端で、兵士たちも臨戦態勢を取っているのが見える。
残りの命で何をすべきか考え始めた、その時。リューズナードの目に、信じたくない光景が映った。
青い障壁に入っていたヒビが独りでに広がり、やがてバリン! と砕け散ったのだ。
「!!」
「おや、まだ殺せと命じてはいなかったのですが……王女が自決でも選んだのですかね」
目を見開くリューズナードに、ツェーザルが淡々と言い放つ。自身の守りよりも優先してくれていた障壁が砕けたのは、ロレッタの身に余程のことが起こった証とも取れる。魔法の出力を維持できなくなるような、何かが。
自決を選んだなんて、考えたくもない。ただ、彼女は以前、原石の村を姉の政略から守る為に、自ら戦場へ向かう決意をしてみせた女性である。家族や仲間たちを盾に脅された場合、最悪の決断を選択肢に入れてしまう可能性も、絶対にないとは言い切れない。リューズナードの心臓が嫌な音を立てた。
砕けた障壁が青い粒子となり、霧散して空気中に溶ける。今度こそ、何も隔てることなく深紅の剣が突き付けられた。
「石屑の分際で、手間をかけさせるな。――死ね」
ツェーザルが大仰に両手剣を振り上げた。炎を纏うブレードが煌々と燃え盛っている。障壁が消滅した今、物理的な攻撃は防げても、魔法そのものを防ぐ手立てがリューズナードにはない。体勢を立て直すのも間に合わない。
リューズナードは愛刀を握り直した。躱すことを諦め、相打ちで可能な限り傷を負わせてやろうと考えたのだ。痛みと恐怖が、少しでもツェーザルの記憶に残るように。自分が死んだ後でも、その記憶が呪いとなってツェーザルの首を絞め続けるように。それだけを願い、覚束ない腕で迎撃の構えを取る。
かくして、深紅の剣がリューズナード目掛けて振り下ろされた。
――しかし、その凶刃が標的を斬り裂くことはなかった。
突如、ツェーザルの体が赤く輝き出したのである。
「!?」
最初は、確実にとどめを刺す為に、大掛かりな魔法でも発動させる気なのかと思った。しかし、当のツェーザルが驚愕の表情で動きを止めたので、その線は薄そうだ。
「な……!?」
彼の全身を包んだ赤い光は、やがてその体を離れて上空へ上がり、パン! と弾けて霧散した。兵士たちの身にも同じことが起きたらしく、混乱している声が聞こえる。
リューズナードの目には、ツェーザルの体から、魔力がごっそり抜けたように見えた。けれども、彼が手にしている両手剣は消えていない。つまり、彼自身の魔力が抜けたわけではなさそうである。それでは、赤い光の正体はなんだったのか。
ツェーザルや兵士たちの身に収まっていた、本人のものとは別の魔力。炎の国出身のリューズナードが察するのに、時間はかからなかった。
(……蘇生魔法か……?)
理由は分からないが、敵にかけられていた蘇生魔法が解除された可能性が高い。王子が命令なしで勝手に魔法を解くことなどないだろうから、恐らくは、今この瞬間に何か不測の事態が起きたのだろう。
王子の元には、ロレッタが居るはずだ。なんの根拠もなかったけれど、彼女が守ってくれたような気がして、リューズナードの体に熱い血が巡り出す。
渾身の力で体を跳ね起こすと、リューズナードはツェーザルの手元を目掛けて刀を振り抜いた。未だ動揺を隠せずにいるツェーザルの手から、両手剣が弾き飛ばされる。そうして丸腰になったところへ、さらなる追撃を加えた。途中で我に返ったツェーザルが、手から直接炎を噴射してきたが、構わず突っ込む。
「ごふっ!」
ツェーザルの腹部を、リューズナードの愛刀が貫いた。自分や仲間たちの体内には存在しない、魔力の制御を司るらしい器官を食い破る。炎魔法が消滅した。
すかさず刀を引き抜き、力なく倒れ込んできたツェーザルへ、刀を振り下ろしながら叫ぶ。
「お前のような王なんて、要らない!!」
鋼の刃が、男の体を深く斬り裂いた。
腹と背中から血液を垂れ流す男は、うつ伏せに倒れたまま動かない。蘇生魔法が発動する兆しもなく、緩やかな肉体の腐敗を待っている。
物言わぬツェーザルを、同じく黙って見下ろしていたリューズナードは、やがてその視線を兵士たちへ移した。蘇生魔法が解除されていることと、一国の主が討たれたことに、酷く狼狽している。面倒が起きる前にと、真っ直ぐ斬り掛かった。兵士たちの生死などどうでも良いが、通信機だけは確実に破壊しなければならない。
元より統率が取れていなかった上、目的意識さえも曖昧になった兵士たちは、あっけなく床に転がった。それぞれが所持していた通信機を全て破壊すると、リューズナードはその場に座り込む。
呼吸がいつまでも整わない。喉が渇くし、汗も止まらない。気を抜けば戻しそうだった。噎せ返るような血の臭いと、どこか虚しい疲労感。戦場を駆け回っていた頃を思い出す。炎の国にまつわる記憶は、つくづく碌でもないものばかりだ。
鞘に納めた刀を杖の代わりにしつつ、リューズナードは立ち上がる。無論、ロレッタを捜しに行く為である。こんなに汚れてしまった手では、もう彼女に触れることは許されないだろうけれど、遠目に見るだけでも良いから、彼女の無事を確認したかった。
今はただ、ロレッタに会いたい。