愛しい娘
「僕は美しい物が好きなんだ。どうせなら、美しい娘を産んでみないか?」
何を言っているのだろう、この人は。
美しいも何も、何人産んだとて、今まで生まれた子と大差なんて出ないだろうに。
そこに耳を疑う言葉が、私アニエスの上に降り注がれた。
「僕の精子と傾国と言われる女性の卵子を、人工受精させて君の子宮に戻すんだ。君が産めば君の子だし、僕の精子であれば我がイクセント家の子に違いはない。………産んでくれないかなぁ?」
悪びれもせずに笑顔で囁く、金髪碧眼の麗しい顔の夫ロビンソン。
私達には息子も二人いるし、娘も一人いる。
もう子供は必要ではない今、人工受精など無用の長物なのに。
彼はただ言外に、私以外の女の子が欲しいと言っているのだ。それも美しい子が欲しいと。
その夜、私は泣いた。
声を殺して泣いていた。
夫は私のことを好きだと思っていたのに…………
私はすごい美女とまではいかないが、富裕階級の娘としてはそこそこ綺麗だと自負している。
勿論青色髪で薄桃色の瞳である私が、夫の美貌に太刀打ちなどは烏滸がましく、結婚も家格のバランスでなったものだ。それでもこの家の嫁として、妻として、母として尽くして来たつもりだ。
それなのに…………
この日から私は、夫のことを嫌いになり始めた。
◇◇◇
とは言え幾百の企業を抱える大富豪で、生活を支える夫には逆らえず、彼の指定した医師の元に向かう。夫からはもう、話はされているのだろう。
「こんにちは」
「こんにちは……」
私から何を言って良いかと思考し、長い沈黙が診察室を支配する。夫から言われたことを伝えなければ………
しかし屈辱と嫌悪が気持ちの前面で叫んでいて、思いの他口に出きなかった。
私の悲痛な面持ちに、黒縁の厚い眼鏡をかけたコンシステン医師は、眉根を寄せた。
「……ご主人から依頼内容は聞いています。ですが貴女には、既に三人の子がいる。出産は命をかける尊い行為だ。私が夫なら、こんなフザケタことなど考えませんね」
初めて会った他人なのに、30代半ばのクセッ毛黒髪の医師は怒ってくれた。夫に対して侮蔑した発言をしたのだ。
私はもう我慢できず、抑えていた涙が溢れ出す。
「えっぐ、えっ、わ、わた、私は、他人の子なんて、生みたく、ない。自分の子だって、大変なのに、なんで、他人の子を……………………」
誰にも言えない秘密と愚痴を、目の前の医師に吐露する。それは止まることはなく続き、医師はずっと静かに聞いてくれていた。
「ごめんなさいね。貴方だって夫には逆らえないのに」
私は取り乱したのが、急に恥ずかしくなり謝罪した。
「謝らないでください。トンでもないことに巻き込まれているのは貴女なのだから」
そして医師は、僅かに柑橘の香りがするハンカチを差し出してきた。
「あ、スミマセン」
「安物なので、差し上げますよ」
「そんな訳には、いえ、やっぱりお借りしますね」
「どうぞ、お使いください」
特権階級の客層が多い故か、診察室はまるで自宅の執務室のように広いだけではなく、重厚感のある木目調の落ち着いた家具が置かれている。机やベッドも木製品を使っていた。
圧倒される白い配色は少なく、暖かい雰囲気だ。
いつの間にか席を立ったコンシステン医師は、優しい微笑みを溢しながら、紅茶を入れて戻ってきた。
それは、蜂蜜とミルクのたっぷりと入ったミルクティー。両手でカップを持ち上げたら、その暖かさにホッとして頬が緩んだ。
「さっきより、少しだけ顔色が良くなりましたね」
わたしはもう泣き過ぎて目は腫れたが、体は心地好い疲労を感じていた。そして心のモヤモヤしたものが吹き飛ぶほど、スッキリしていた。
この時間を持てたことで、今後のビジョンが見えた気がする。
「話を聞いてくださって、ありがとうございます。私ったら、どうかしていましたわ。あんな理不尽なことを言われて、言いなりになろうとして。馬鹿みたいね」
ここ最近ずっと辛くて、悲しい顔をしていた気がする。
今後の決意をした今、近いうちにはきっと、理不尽な辛い気持ちから解放されるはずだ。
「先生。私、離婚しますわ。あの人、子供は手放さないと思うから、一人なら家庭教師でもして暮らせるし」
急に明るい顔でこんなことを話すから、医師はビックリしていた。
「イクセント家夫人の地位を、そんなに簡単に手放すと言うのですか? 十数年を費やしてきたのに。一度ご主人に話せば、もう戻れないのですよ! 今後の生活だって、何不自由なく出来る立場なのに」
医師が心配してくれている気配が、伝わって来る。
夫に対しても怒ってくれていたし、きっと倫理観のしっかりした良い人なのだろう。
「………本当にありがとうございます。
先生とお話しできたから、不幸になる子供が一人減らせたわ。よく考えれば、美しい子が欲しいなら、私と離婚してそのような方と再婚すれば良いのです。私は子を産む道具じゃないわ」
話を聞いて貰えるのが、こんなに嬉しいことだと思わなかった。ずっと誰にも言えずに抱えていたから。
ああ、気持ち良い。
あんなロクデナシ、こっちから投げ捨ててやるわ!
「まあ、そこまで、止めようとは思ってはいないのだが。その前についでだから、私の顔を見て欲しいんだ」
医師は笑って、黒縁眼鏡をはずした。
「えっ、嘘! 何で!」
私は声が詰まった。
だって彼の顔は、夫とソックリだったから。
◇◇◇
彼は夫ロビンソンの、双子の弟だと言う。
後継者争いにならぬように、子の居なかった遠縁ダンテール家へ実子として届けが出されていたそう。当主ダンテールが愛人に生まれた子を、跡取りとして受け入れたと言うシナリオまで作り上げて。
彼はそれを知らずに育ち、医学部に進学を希望した際に子供のいないグレイシー・ミザウリー医師の元へ、秘密裏に養子に出されたと言う。
どうやらそのグレイシー医師は彼のことを、以前から知っていて見守っていたらしい。
そしてイクセント家との無用な争いを避ける為、彼に出生の秘密を伝えた後、彼の金髪を黒髪に染めて眼鏡を装着し、瞳の色を隠し始めたのもこの時からだと言う。
彼と夫は一卵性双生児で、遺伝子レベルでほぼ同一の個体だそう。医師に取り上げられる順番が少し違っただけで、その運命は大きく変わった。そして夫のスペアである彼は微妙な立場である。虎視眈々と立場を狙う親族が夫には群がっており、敵味方の区別も儘ならない。万が一の際身代わりにされたり、最悪の場合(致命傷や死亡した時)、夫の代わりに夫として生きていくことを課されるかもしれない。彼の養父ダンテールは、そんなことに利用されることを厭い匿った形だ。
彼が最初に養子に出されたダンテール家で、彼は大切に育てられた。そしてもう高齢であったダンテール夫妻は、彼の将来を心配していた。
「この子は、私達夫婦に幸せを届けてくれた天使です。このままでは、何れ利用される時が来るでしょう。
私達の所へ養子に来たのも、適当な身分をこの子に与えロビンソン様の補佐や影武者をさせる為なのです。それでなくとも、私達の残る寿命は少ない。既に養父母の年齢は60を越えていた。
ですからどうか、この子に自由な未来を与えてください」
そう懇願されたグレイシー医師は要求に応じ、彼が海で溺れて亡くなったことにした。葬儀は盛大に行われ、彼の死はイクセント家にも周知された。
虚偽の死亡診断書は、疑われることなく処理された。
そして医学部にコンシステンが受験する前に、適当な出生証明書を作成したグレイシーは、彼を遠縁の子として養子に迎えた。
◇◇◇
グレイシーの義息となったコンシステンに、野心はなかった。実の親が大財閥のイクセント家当主だとしても、彼は寧ろバレたら面倒だとぐらいしか思わなかった。
彼は医師で身を立てていくことに不満はない。優秀過ぎた彼は、グレイシーの後を継いで病院を任された。産科の最先端、不妊治療をサポートする胚培養士やMR(医薬情報担当者)や医療機器などのかなり大きな分野にまで。
今や人工受精は、それほど珍しい分野ではない。
ただ彼は、命を軽く扱うことに抵抗がある。
自分の生まれた、環境のせいもあるのだろう。
「もし貴女が良ければ、私と子供を作らないか? そして折りを見て、その子を養子として私に育てさせて欲しい。必ず大切に育てるから。そうすれば貴女は、今の地位を守れて私は後継者が出来るから、誰も傷つかない。貴女に出産のリスクは付きまとうのだが、どうだろうか?」
私は目を白黒させる。
つい先程まで離婚して、何もかも捨てようとしていたのに。
でも、冷静に考えて見れば、私の生家も夫の企業と事業提携をしている。もし離婚すれば、私は親から籍を抜かれただけでなく、命さえ狙われかねないのだ。
ああ、思いつきで夫に話してしまわなくて良かった。
それと、今回のことを口外しない代わりに、離婚に応じるような脅しもしなくて良かった。
こうして目から鱗な私は、今後のことについて話し合ったのだ。
◇◇◇
コンシステンの義父グレイシーは、彼を守る為に極力外部に過去の情報を漏らさず、また時に隠蔽工作もした。
コンシステンは病院を継ぐ際に、あることを知った。
それはグレイシーは、不妊治療の第一人者と知られる他に、精子バンクの一員だと言うことを。
現在数ヵ国に7施設の精子バンク、卵子バンクがある。
その先駆けの施設に、義父も精子を提供していた。
夫婦のどちらかに問題がある夫婦に、他者からの卵子や精子を提供できる連携施設だ。
その際、遺伝子レベルで精子と卵子の組み合わせを確認するが、その前段階が依頼者の好みとなる。
まずは髪色、瞳の色、人種、精子と卵子の現在の身長や体型、既往歴、病歴、大まかな容姿、職業、IQ、運動能力(得意なスポーツ、経歴など)から、候補を選び適応を確認するのだ。
グレイシーには子はいない。
両親とも彼が成人してから死別し、親戚も多くはない。
彼は提供者であり、研究者である。
本来提供者側に、受精者側の情報が漏れることはない。容易にそのようなことがあれば、社会全体が混乱を来すからだ。
だが、研究者であるグレイシーは別だ。
この人工受精のシステムを作り上げたのは、彼だからだ。
研究に必要であれば、簡単にアクセスできる権限を持っている。それが初期の精子提供における、彼からの条件だったからだ。人物が特定されることはないように秘匿されているが、医師であるレーベルは人工受精において人気があった。もしかしたら、子供が医師になれるかもしれないと、期待に胸膨らませる夫婦もいるからだ。
この世界でも、医師・弁護士・裁判官・政治家・有名な大会での運動選手には、人気が多く集まっていた。
人工受精後に生まれた子供達の行く末を、グレイシーは調査していく。普通に生まれた子も人工受精後に生まれた子も、それほど大きな差はないように見える。
だけど、決定的な確執が起こった時に、『どうせ、◯◯の精子だから、◯◯の卵子だから、俺の、私、血は入っていない』と言われるのには閉口した。
書類の作成時には、自分の子として愛をもって育てると誓ったはずなのに。
その調べによる被害児は1割弱だったが、人生の全てをこの研究に費やしたグレイシーには衝撃が強かった。
『もしかしたら、私は不幸な子を作ったのかもしれない』と。
勿論それ以上に幸福な子も多くいたが、一部の不幸な子に対してのモヤモヤは、ずっと心に残っていた。
そして己に課す試練のように、調査を続けていく。
時に不幸な子に手を差し伸べ、時に行く末を見守る。
そうして出会ったのが、コンシステンだった。
彼はグレイシーの若い時によく似ていた。彼の兄ロビンソンも同様に。
彼がコンシステンに、特別な感情を持つのは自然なことだった。彼は天涯孤独の状態だったから。
だから必要以上に感情移入した自覚はある。
コンシステンの死を偽装して、養子にしてしまう程に。
「僕は本当の意味で、貴方の息子だったのですね」
グレイシーの跡を継ぐコンシステンには、詳らかにする必要があった。そして彼は、嬉々としてそれを受け入れた。
代償のない親切は、時に不安がつき纏う。
この時コンシステンは、心からグレイシーを父親と認めたのだ。
「貴方の息子で良かった」
「………ありがとう、でも済まなかったね。大人の事情で翻弄してしまった」
ああ、なんて優しい人なのだろう。
科学者を続けていくには、向いていない性格だ。
泣きながらコンシステンを抱きしめるグレイシーは、この時確かに父親となった。
その後もこの優秀な父子は、研究と受精卵の行方を調べていた。
そしてコンシステンは、実の兄ロビンソンの調査にも手を伸ばす。
◇◇◇
1年後。
私アニエスは、夫に似た女の子を出産した。
夫はとても喜び、下にも置かない状態で可愛がった。
それこそ他の子が嫉妬する程に。
でもそこは末子で、他の兄姉達と10才以上の年齢差もあったので、結局は皆に溺愛されていたのだが。
平和な時が続いたある日。
夫は病に倒れ昏睡状態となり、そのままこの世を去っていった。
それは幸福そうな笑顔だった。
子供達は大いに悲しみ。
3才になる子ナナリルは、動かない父親を見て泣き叫んだ。あんなに彼を憎んでいた私も、とても辛くて苦しかった。
私の子ナナリルは、私とコンシステンの受精卵から生まれた子だ。夫との子ではない。
それを知らない夫はナナリルを溺愛し、見たことのない柔らかい微笑みを死ぬまで浮かべていた。
「おとうさま、もうくるしくない?」
「ええ、くるしくないわ」
「よかった。やっとしあわせになれるね」
「? 幸せに、なる?」
「うん。らくになったのね」
3才になる娘の言葉が理解できなかった。
何故娘はこんなことを?
◇◇◇
ロビンソンの両親は子供が出来ず、人工受精により子を授かった。
彼はいつも言われていた。
「貴方はこの家を継ぐ為に生まれたのよ。立派な後継ぎになり、私達を安心させてね」
「お前には、高い金がかかっているのだからな。期待しているぞ」
それは生まれた瞬間からの祝福であり呪詛であり、洗脳のように囁かれる。
そうして幼児特有の反抗期や遊びたい盛りにもそれは許されず、注意し阻止されて強制的に学びを与えられた。
反抗すれば、起き上がれぬ程の体罰を与えられる日々だ。幼い子が絶望の目をして大人の顔色を窺うのを、彼付きの乳母や侍女は悲しく感じていた。だが我慢できず諫言する者は、次々に屋敷から消えていくのだ。
「僕に構わなくて良いよ。両親は変わらないから」
寂しく微笑む彼に、誰も言葉をかけられずにいた。
ロビンソンの父でイクセントの当主マーニーは、幼い時の高熱で精子が減り、動く精子が確認できないことで、他者からの人工受精を頼った。夫人は自分の卵子とお腹を痛めたことで息子を愛したが、父であるマーニーは圧倒的に他人であった。
彼がロビンソンに触れたことは、殆どなかった。
苛烈な教育により、立派な当主になったロビンソンだが、彼には圧倒的に人としての情緒が欠けていた。
何においても両親の言いなりである。
企業経営時も、威圧的にと言われればそのように。
優しさを見せろと言われれば、そのように。
結婚においてもそれは適応された。
マザコンやファザコンではなく、最早彼らの傀儡と言っても過言ではなかった。
アニエスは夫であるロビンソンのサポートをする為に選ばれた。
アニエスもまた実の両親に、そのように扱われて来たから目をつけられたのだ。
だからロビンソンとアニエスは、ある意味同士のように信愛の情を持っていた。愛情かどうかはわからないまま、時は過ぎていく。
◇◇◇
彼ロビンソンは自分の寿命が、病によりあまりないと知っていた。そうして最期を悟った時、自分と同じ境遇の子を愛したいと思ったのだ。
妻には悪いと思うが、どうしても他者である者との人工受精で生まれて来た子に愛情を与えたいと思った。きっと理由を言っても妻には理解されないだろう。
男でも女でも良いから、僕と同じ子を自分が得られなかったことを、欲しかった言葉をかけて育てたい。
そう思ったのだ。
何にも役目なんてない、何にでもなって良いんだと言いながら、お互いに笑える日々が欲しい。
僕の両親は数年前に死んだが、僕は何も悲しくなかった。ただ周囲の親と子を真似て、最期の別れをした。
怪しまれてはいなかったと思う。
でも彼らの洗脳は、ずっと解けないままだ。
ずっと周囲が求める人物を演じてきた。
会社でも、妻にも、子供にも。
自分は本当は人間ではなくて、機械ではないかと思うこともあったが、すっかり疲れたところを見れば人間なのだろう。
でももう最期だと医師から継げられた時、心から望んだのが生き直しだ。僕の代わりに僕に似た境遇の者を可愛がりたいと。妻と一緒ではない、僕一人だけの子供が欲しかった。
妻にとっては最悪の夫だ。
でも最大の勇気を出して、懇願したのだ。
緊張して嘘臭く笑ってしまったが、きっと妻は憎悪したことだろう。
でも妻だから言えた。
他の者には絶対に頼めなかっただろう。
僕はアニエスを愛していたのだと思う。
少なくても信用していた。
けれどこれで離婚されても、もうしょうがないとも思っていた。
けれど彼女は、僕の願いを叶えてくれた。
こんな僕のことを見放さないで、ナナリルと共に愛してくれた。1年と言われた命は、3年ももった。
本当に幸せだった。
ありがとう、アニエス。
本当に幸せだった。
アニエスが彼の日記を発見したのは、彼が死んでから3か月経った頃だった。
「何で、言ってくれなかったのよ。
馬鹿よ、貴方は。グズッ、ズッ、グッ………うっ」
彼女は彼の気持ちを初めて知り、理由もわからず涙を溢し続けた。
彼の部屋は生前のまま手付かずだったが、念のために自宅に重要書類がないか、会社から調べて欲しいと確認の連絡がきたのだ。鍵のかかる机の日記をみつけたのは、偶然だった。
◇◇◇
結局アニエスは、娘をコンシステンの養子にはしなかった。ロビンソンの日記をコンシステンにも見せて、自分も娘を育てる覚悟を決めたと話した。
コンシステンは、幸せだと思っていたロビンソンのことを知って息が詰まった。何とも言えず目頭が熱くなり、嗚咽した。
自分が辿ったかもしれない人生。
誰にも相談できず日記として書くことで、自分と対話していたのだろう。
コンシステンは養子の件は白紙で良いから、困ったことがあれば何でも助けると伝えた。
アニエスが娘を見るのが辛いのではないかと思い養子の提案をしていたが、彼女は娘を愛していると言う。
コンシステンにしても養父グレイシー亡き今、ナナリルは唯一の家族になる(アニエスの他の子供も姪甥の関係になるが、叔父のコンシステンは既に葬式をあげた状態であり、正体は明かせない)。
けれどそれを知ることは、ナナリルの幸福には繋がらない気がする。黙っていれば、他の兄姉と同じ立場に留まれるから。
今後もナナリルはロビンソンの子として、生きていくことになった。
けれどもし彼女が辛い時は、力にならせて欲しいと思う。
会社の株も経営権もアニエスに一時譲渡され、息子が成人後は彼に経営権が移ることになった。
ロビンソンは、機械のように人の望むようにしてしまうと自分を嫌悪していたが、それによって救われた傘下の企業が多く存在していたことを知らなかった。
元来秀才である彼の能力は高く、切り捨てないで再生させようとする発想が常に頭にあった。それはいつも父親から見切られる恐怖を知る、彼だから出来たのかもしれない。
ハイエナのような親族も多いイクセント家だったが、彼の行動により残る家族は救われたのだ。
古参の使用人達も、葬儀の際に全員が悲しそうに涙していた。
「よく頑張りましたね。坊っちゃん」
「やっとゆっくり出来るな」
「私達も後数年さ。元気で会いましょうね」
「寂しいけど、でもなんて笑顔なの」
「家族が出来て、幸せだったのね」
アニエスは、それを見て思う。
本人は気づかなかっただけで、愛されていたのね
夫は。
結局私は、心からの信頼をロビンソンに与えられなかった。でもそんな夫婦など、どのくらいいるのだろうかとも、思い直す。
許せないこともたくさんあったけれど、こうして家族を守ってくれた夫なのだ。
◇◇◇
あれから1年が経った。
「もう、許してあげるわ。貴方のこと、やっぱり好きだった」
大きな入道雲を眺めながら、4才になったナナリルと敷地を散歩をするアニエス。
「誰かとケンカしたの?」
ナナリルが心配そうに尋ねる。
「えーとね、もう仲直りしたのよ。ごめんね、空を見てたら思わず口に出ちゃったみたい」
「ううん、良いの。私も幼稚園でケンカすることあるもの。もう仲直りしたのよ」
「そうなのね。たまには違う意見で、食い違うこともあるものね。仲直りできて良かったね」
「うん」
満面の笑顔を見つめ、嬉しくなるアニエス。
この子は愛すべき私の娘で、今日も私の方が励まされてしまった。
◇◇◇
コンシステンは、兄の墓参りに来ていた。
表面から見ても真実はわからない。
時にはぶつかることも必要なのだと。
「アニエスにとって、最悪の夫だと思った。酷い兄だと思った。けれど、本当はどうだったかはわからないな。話をしたら、やっぱり駄目な奴だっかもしれないしな」
周囲の大人に守られて、イクセント家から逃げたコンシステンには、真実はわからない。
けれども一度くらいは、腹をわって話しておけば良かったと思った。人工受精の件も電話だけがきて、直接会ってもいなかったから。でもその時の声は、自分に似ている気がした。
彼は苦悩しながらも医師を続けていく。
そしていつか、自分なりの答えを見つけるのだろう。
愛する誰かにも、巡り会えるかもしれない。
兄弟揃って不器用なのは同じみたいだけれど、それでも生きていくのだ。
◇◇◇
結局のところロビンソンだけの子供ではなく、アニエスだけの子供になっていたナナリル。
気づかずに逝けた彼だけど、幸せだったなら良いかとアニエスとコンシステンは、割りきることにした。
彼が事実を知らなかったどうかは、永遠の謎である。
たぶんロビンソンはアニエスの性格も分析していて、自分の子ではないとわかっていたのだと思う。
7/30 21時 日間ヒューマンドラマ(短編) 28位でした。
ありがとうございます(*^^*)




