17:花桃の宮
わたしのために用意された宮は、ルキアン様の宮からさほど離れていない場所に出来た。獣人の中でも特に力持ちの種族の方々や、建設が得意なドワーフを集めて建てられた。名を花桃の宮という。
その名の通り、建物の周囲には花桃が植えられている。これは宮を建てた時に一緒に植えたので、銀木犀やジャカランダのような『狂い咲き』ではない。早春に花開き、春が進むにつれて散って葉に変わっていく、ごく普通の花桃だ。
花桃の宮には、たくさんの侍女や衛兵や下男が働いていて、わたしの生活を住み良いようにと皆が気を配ってくれている。
クローブさんとジャスミンさんとロドリーさんしかいなかった銀木犀の宮とは大違いの賑やかさだ。
これはたぶんルキアン様が、わたしに箔を付けようとして用意してくださった方々なのだろう。
その御心遣いはたいへんありがたく、とても嬉しい。
嬉しいのだけれど……。
「でも、わたしは銀木犀の宮に戻りたいのです、クローブさん!」
花桃の宮まで足を運んでくださったクローブさんに、わたしは切々と訴えた。
クローブさんは狐耳を気まずそうにぴくぴく動かしながら、出されたお茶を啜る。
「まぁ、無理でしょうよ。ルキアン様が純情を諦めて肉欲で我慢するか、あなた自身の気持ちに変化がなければ」
「肉欲ですか? ルキアン様に抱かれる覚悟は、わたし、とっくに出来ています」
「ルキアン様がほしいのは忠誠心からの覚悟ではないので、どうしようもないんですよ」
ルキアン様に対する忠誠心はわたしにとって大切なものだというのに、クローブさんは非常に難しいことをおっしゃった。
ルキアン様がわたしの忠誠心以外をほしいというのなら、それは一体なんなのかしら……。
「そんなことより、シェリ妃」
わたしがルキアン様と婚姻して以来、クローブさんはわたしのことを『シェリ妃』と呼び方を変えた。
わたしは呼び捨てのままでも構わなかったのだけれど、ルキアン様の側近であるクローブさんが主人の妻を呼び捨てにするわけにもいかなかったのだ。
クローブさんは持ってきた荷物をわたしの前に置く。
「頼まれていた城下の流行りの菓子と、……次の夜会の衣装です。衣装はルキアン様がお選びになりました」
「まぁっ、ルキアン様が! とっても嬉しいですっ。運んできてくださってありがとうございます、クローブさん」
夜会に出席するということは、ルキアン様の正妃として公務を行うということだ。ルキアン様のお役に立てると思うとわたしはウキウキした。
「……あなたに良からぬ態度を取る貴族がいたら、すぐにルキアン様か僕に伝えてください。未だルキアン様の『逆鱗妃』を侮る者が多いのですから」
「わたしはべつに気にしていません」
突然現れたわたし(それも脆弱だと思われている人間種)が皇太子妃になったので、色々と思うところがある人がいるのは仕方がないことだ。
『もしかしたらその幸運を自分が手に入れられたかもしれないのに』と、本当は自分が手に入れられる保証など何一つなくとも、自分以外の誰かが幸運を手に入れてしまうと相手を羨んでしまう人など、掃いて捨てるほどいる。キラ皇国にいた頃、貴族社会でも修道院でも、そういう人たちをよく見かけた。
「新参者を嫌う方は、どこの国にもいらっしゃるものですから」
「何をぼんやりとしたことを言っているのですか、シェリ妃? あなたがルキアン様に嫁がれてから、もう二年も経ちますが」
花桃の宮を建てたり、宮で働く人を選別したり、引っ越しをしたりしていたら、わたしもルキアン様も十六歳になってしまった。
二年で妃の宮が建てられたこと自体は、異例の速さだったと思うのだけれど。
「貴族たちがわたしを軽んじるのは、わたしに二年経っても子が出来ないことが問題なのではないのでしょうか? 出来るはずもないのですが」
「結局話はそこに戻ってしまうんですよね……。僕の主君は、本当に頭が痛い。据え膳食わぬは、という言葉に耳を塞いでいるつもりなのか」
クローブさんは指で自分の眉間を揉みつつ、立ち上がる。
「では夜会の時にルキアン様とお迎えに上るので、支度の方をよろしくお願いしますよ」
「はいっ、クローブさん」
客室から退室しようとしたクローブさんは、衣装箱の横に置かれた城下の菓子店の箱に目を止める。
「あなたも結構、甘い物が好きですよね。毎回ほしいものを尋ねられる度に『城下で流行りのお菓子を』と答えるのですから」
「……ふふふ、そうでしょうかね?」
実はこれは毎回、全部はわたしの口には入らず、半分はある人に奪われているのだけれど。
その事実を知られるのは何だか後ろめたくて、はぐらかしたような返答になってしまった。
その後クローブさんを玄関先まで見送ると、わたしは夜会の衣装の確認のために宮の奥へと戻った。
▽
「ではシェリ妃様、今夜はこれにて退室させていただきます。夜間の御用は部屋の外にいる侍女にお申し付けください」
「はい、分かりました。本日もご苦労様です」
「では失礼いたします」
花桃の宮の寝室から侍女が立ち去ると、わたしはそっと窓の外を確認する。
すると広々とした庭の影の中に、一人の少年の姿が浮かびあがった。
「幽霊さん!」
わたしはクローブさんから差し入れていただいたお菓子を持ち、庭へと下りた。
夜の暗闇の中を月明かりが照らし出し、少年のもとへ向かう道が白く光っていた。
黒髪の少年は紅い瞳でこちらをきつく睨みつけながら、
「幽霊などと私を呼ぶな」
と答えた。
「だって何年経ってもお名前を教えてくださらないじゃないですか。それに……」
わたしは少年の頭から爪先までをじろじろと見下ろす。
「初めてお会いした時から、お姿が変わらないですから」
初潮が来てから体の肉の付き方が変わったわたしや、発作がだいぶ減って背丈がどんどん伸びたルキアン様、もはや立派な青年に成長されたクローブさんとは違い、この黒髪の少年には見た目の変化がまったく起こらなかった。
それだけではなく、彼が見回りの衛兵の前を横切って、いろんな宮へ不法侵入するところをわたしは何度も目撃した。
この黒髪の少年はわたしの目にしか見えない幽霊なのだと、理解するほか無かった。
以前、白銀城の外には出られないとおっしゃっていたし。
黒髪の少年は両腕を組んでそっぽを向き、忌々し気に舌打ちをする。
「私が見た目の年齢を変えようと思えば、いくらでも変えられる。青年期だろうと老年期だろうと、……乳児期だろうと」
「完全に幽霊じゃないですか」
わたしはそう言いつつ、お菓子を取り出した。
「これ、城下で流行っている新しいお菓子だそうですよ」
「……」
不機嫌ながらもお菓子は気になるようで、チラリとこちらを向いた。ルキアン様と同じ紅い瞳に、似通ったお顔。幽霊は幽霊でも、生前は皇族の一員だったのかもしれない。身に着けている衣装も高価そうだし。
お菓子の箱を開けて中を見せると、少年が身を乗り出して覗き込む。
「……それはどういう菓子なんだ?」
「小麦と卵の生地の中にゴマ餡が入った、お菓子だそうですよ」
「ふーん」
黒髪の少年は箱の中のお菓子をきっちり半分手に取ると、「次も用意しておけよ」と言って去って行った。
幽霊にお菓子をあげるだなんて、お供え物みたいだな、とわたしは思う。
少年の後ろ姿は、まさしく彷徨える亡霊だった。




