今度は殴られなかった
ハイランド王国暦二〇五年の六月十七日。
ミュルーズは、まだ陥落していなかった。
だが、空を汚す黒煙の濃さと多さに、アルヴェールは胸を鷲掴みにされたような苦しさを覚えて表情を歪める。
彼がいる場所からは、市街地の様子も、敵の様子もよくわからない。しかし禍々しい空の汚れを見れば、どのような状況かなど悩むまでもなかった。
ミュルーズからみて西に五千フットの位置で、北方五カ国連邦軍二万七〇〇〇は展開しているが、これは彼らが望んだ場所ではなかった。
イースガリア王国軍の一部が、連邦軍の増援接近に対して、ミュルーズ西側の河を渡り展開したからだ。
イースガリア王国軍の指揮官である黒太子ベリウスは、アルヴェールの推測通り、ミュルーズ包囲軍をバイアンに任せ、自ら率いる軍で、後詰めに現れた連邦軍の前に立ち塞がった。
これに対し、連邦軍の増援を率いるハイランド王国のトレント中将は、前面のイースガリア王国軍は二万程度であることから、南北へと軍を広げ、横に広がった陣形で敵へと向かって前進するも、イースガリア王国軍側から大砲を撃たれ、その射程範囲外ギリギリの千フットの距離で全軍を停止させた。
連邦軍内のいたるところから、その消極的な判断を批判する声があがるが、トレント中将は意に介さなかった。しかしこれは、周囲にはそう見えているだけで、実際の彼の思考は、他にやりようがなく打つ手がないから動けないというものである。
彼は、グラーツの士官学校で歴史を教えていた人物で、温厚で誠実な人柄を誰からも評価されるが、指揮官としては判断力に欠け、前例にとらわれる癖があるので今回の人事は失敗ではないかと囁かれていた。
どうしてトレント中将が後詰めの指揮官なのかと不思議に思う者たちは少なくない。
彼らが噂するひとつが、ハイランドのベルターク侯爵が連邦本部に捻じ込んだらしいというものである。では何を狙ってなのかとまた詮索好き達は話し合うのである。
この、ベルターク侯爵がトレント中将をハイランド王に推薦し、また増援全体の指揮官となるように連邦本部に話をつけたのは事実だった。
なぜか。
トレント中将は、アルヴェールに歴史を教えた教師であるし、その人柄であれば、空気を読まずに献策してくる元教え子の意見を無視しないだろうと、ベルターク侯爵は考えたからである。
ベルターク侯爵ウェイルズは、今回のミュルーズ解放戦の勝機は、アルヴェールにあると信じていたから、彼が能力を発揮できる状況を作るために、あれこれと働いたのだった。
このように、ハイランド王国の摂政からおかしな信頼をうけているトレント中将と、本当の意味で信用されているアルヴェールは、両軍が対峙したこの時点ではまだ再会をしていない。
トレント中将は、河を使ってなんとか、都市の南側、大軍が配置できない箇所からミュルーズへと物資を運び入れることはできないかと頑張ったものの、悉くベリウスに撃退されて、それも諦めた。
対峙から、二日が経過してからのことである。
ミュルーズの市街地から立ち上る黒煙の数は、増えたという言葉を使うには悲惨であった。一本の太く黒い柱が、空へと伸びているかのような光景は、もう時間がないということを連邦軍に突きつけている。
六月十九日の夜、アルヴェールがトレント中将を訪ねることで、ようやく元教師と元生徒は、ベルターク侯爵が望む再会を果たしたのである。
-scene transition-
アルヴェールが本部幕舎に入ると、トレント中将の他、参謀連中もずらりと勢ぞろいしていて、談笑をしながら地図を見て、翌日の作戦を考えているところだった。
(焦っているのは現場だけだ……こいつらは他人事かよ)
アルヴェールは胸中を隠し、敬礼をして名乗った。
「ラスカ伯爵アルヴェール、入ります」
「おお、ハイランドの勇者殿、どうした?」
初老の中将は、参謀たちに議論を続けろと言い、士官学校時代の教え子であるアルヴェールの訪問を歓迎する。
「聞いたぞ。前回は活躍だったそうだな」
「大負けです。それで今、このザマですよ」
アルヴェールがミュルーズの方角を見る。
トレントは苦い薬を飲んだような表情を作り、元教え子が過去を懐かしむために訪ねてきたわけではないだろうという読みで問う。
「わざわざ、来たのは配置の希望でもあるか? 世間話で会いに来たのではあるまい?」
ラスカ伯爵中隊は、左翼後方の配置となっていた。これは、彼らが大砲持参で来ていたので、トレント中将の参謀たちは、「何を考えているのかわからんが、持ってきたものは仕方ない。前回のはまぐれか? まったくふざけたことをしおって。せめて役にたつように、後方から敵を撃ってもらおう」と文句と愚痴と批判を吐いて、配置を決めたのである。
アルヴェールが、持参した地図を広げてトレントが見えるように向きを変えながら言う。
「いえ、別行動のお許しを得たいのですが、よろしいでしょうか?」
「別行動? ……君が逃げ出すとは思えんが、理由があるのか?」
「失礼ながら、全てをここで話したところでご納得いただけないかもしれませんが?」
「試しに聞こう。儂だけのことではないゆえ、ちょっと待て」
トレントは、作戦卓を囲んで議論している参謀たちに声をかける。
「お前たち、そこに席をつくれ」
こうして、作戦卓に招かれたアルヴェールは、持参した地図を作戦卓に広げて説明を始めた。そこには、ミュルーズ周辺が描かれており、都市の北西にある山地の一部分が、赤い丸で囲まれていた。
「イースガリア王国軍の、ミュルーズ包囲軍をこのミュルーズ北西の山地から砲撃します。距離は千フットほど離れておりますが、高みから撃ちこめば届きます」
場は沈黙の後、笑い声に包まれた。
「伯爵閣下様! 弾は届けばいいというものではありませんよ!」
「笑いすぎて腹が痛い! ハイランドの勇者殿は発想が柔軟ですな!」
「戦闘射程はせいぜい五〇〇でしょう! そんな常識もおわかりでないので?」
「士官学校で勉強をやり直したほうがいいのでは!?」
「まぁ、待て」
トレントが参謀たちを諌め、真面目な顔のアルヴェールに問う。
「彼らの無礼は儂が詫びる。しかし、彼らの言うことは一理ある。どうだ?」
「狙いなど必要なく、届けばいいのです」
「どういうことだ?」
「包囲軍は、ミュルーズを包囲しています。また、西側の平地部は狭い……密集しているでしょう。弾が届けば、あたります」
「……中将閣下、よろしいでしょうか?」
一人、黙っていた参謀が口を開いた。
「なんだ? 意見があるのか?」
「はい。まず、アルヴェール卿に同僚たちの無礼をお詫びいたします。お許しください。アイラ王国のゴッドリーです」
彼は、同僚たちに睨まれながらも話を続ける。
「アルヴェール卿の案、いいと思います。我々はこれまで考え違いをしていたのではないでしょうか?」
「考え違い?」
トレントの問いに、ゴッドリーが広げられた地図を指し示しながら発言を答えた。
「はい。目の前のイースガリア王国軍を撃破することに必死となっておりますが、敵と我々では、事情が違います……我々はミュルーズ解放が目的……となると、目の前の敵をいくら叩いたところで時間を失うばかりでしょう」
一同が沈黙した。
アルヴェールは、内心で喜んでいたが無表情を保つ。
(賢い奴がいて話が早い)
彼の思考を知らないゴッドリーは、一同を眺めながら説明する。
「この本軍そのものを囮に使い、敵包囲軍に砲弾を浴びせることで包囲を解かせる。慌てる包囲軍を放置できない眼前の敵軍は、必ず後退するでしょうから、今度はこの本軍で追撃し、敵を一気に追い払います。この考えでよろしいでしょうか? アルヴェール卿?」
「ありがとうございます。付け加えるならば、北西の山地に進出する部隊は大規模では駄目です。目立たず行動できる小さな規模が望ましいです。よって、私に別行動の許可を頂ければと思い参った次第です」
アルヴェールが一礼で言を終えた時、トレントが大きく頷いていた。
「わかった。だが、さすがに一個中隊だけでは心もとない。ゴッドリー、一個中隊を彼に貸し与えよ。アルヴェール、弾薬、火薬、十分か? 他に必要なものはあるか?」
「あまり多いと、今度は速度が落ちて敵に見つかってしまいます。私どもでここまで運んできているので、移動時のおおよその速度や発する音、手間などは把握しておりますので、その半分の速度……夜の移動としますので、通常の半分の速度で進むことになるでしょうから、今の物量で行動する場合にかかる日数が限界と考えます。それ以上は、ミュルーズがもたないかもしれません……中隊はありがたくお借りいたします。斥候、偵察に長けた中隊があればなおよいのですが?」
「手配します。半刻、お待ちください」
ゴッドリーが答え、アルヴェールは中将、参謀たちに会釈をしてその場を離れた。
幕舎から出たところで、レオンの出迎えを受ける。
「閣下、今度は顔が腫れていませんね?」
「トレント先生……いや、中将閣下でよかったよ。前からあの人は、生徒の意見にもちゃんと耳を傾ける人だったから……ベルターク侯爵閣下はいい人事をしてくれたよ」
「侯爵閣下に頭、あがらないですね?」
「うん……世話になりっぱなしで……いつか、お返しができたらいいけど」
「ご長男を助けたじゃありませんか」
「ぜんぜん足りないよ、さ、出発だ。準備はできているな?」
「ええ、万全です」
「俺たちに中隊を回してもらう。斥候や伝令、偵察で使う。俺たちは移動と陣地設営に集中しよう」
「了解です。では、中隊の到着を待って出発ですね?」
「そうだ。夜のうちに出る」
アルヴェールは言い、レオンは無言となることで承知を伝えた。