第94話 喫茶店
「お邪魔しま~す」
遅い夕方に喫茶『シャングリラ』を訪れたのは、藤助だった。
昨日の今日でさわやかに挨拶をしてきた藤助に、雪華は朝も驚かされたが、この夕の驚きはそれ以上だった。
「いらっ……」
雪華の声が潰えた。
藤助の後ろから、帝、そして、纏が入ってきたからだ。
「……しゃいませ」
空隙に落ちた言葉を拾い直して、雪華は言葉を紡ぐ。
藤助は、いつも座っていた席ではなく、二人をテーブル席に招き、四人掛けのところに三人で腰を下ろした。
藤助が一人、向かい側に帝と纏が座る。
いささかの動揺を感じながら、冷水を注いで、ぼんに乗せ、テーブルに向かう。
藤助がこちらを見ていたせいで、目が合ってしまった。
以前と変わらない笑顔で、藤助がひらひらと手を振る。
「ご注文がお決まりになりましたら、お声がけください」
「は~い」
帝と纏はただ頷いただけだった。
視界の端で様子を窺うと、纏がしきりに何か話し、それに藤助が応じている。
帝は、その途中途中で何か言っているようだ。
「すみませ~ん」
「はーい」
別の客から声をかけられ、注文をとる。
「チキンソテーと、オニオングラタンですね」
老夫婦のオーダーを確認し、厨房の父に伝える。
ホールに戻ろうとする雪華を、母が呼び止めた。
「雪っちゃん」
「ん?」
「そろそろ時間だけど、どうする?」
「ん……今日は、もうちょっといるよ。クラスメイトも来たから」
「そう? まぁ、いつも来てない子も来てるみたいだしね。けっこう美人さんね」
その美人さんこそが、かつて『雪華』を追い詰めた張本人だ……ということを、母は知らない。
でも、と思う。
今ここにいるのだって、雪華であって『雪華』ではない。
知らなくていいこと、知らない方がいいことがある、と思うのは、自分のエゴだろうか。
藤助が手を挙げているのに気づいて、雪華はテーブルに向かった。
「ご注文を――」
「も~、カタイってば、雪華ちゃん。ちょいと涙がちょちょぎれるイベントがあったくらいで、俺らの仲じゃないの」
困ったような笑顔で、藤助が言う。
「それはそれ、これはこれでしょ? むしろ、そうしたいから、こうして食事に来たんだしさ」
「――うん、分かった」
ニッと笑って見せる藤助に、雪華も穏やかに笑うことが出来た。
自分は応えられなかったけど、彼と結ばれる女性は幸せになれるんじゃないだろうか。
「じゃ、あらためて……ご注文は?」
「俺は思い出の味、生姜焼き定食で!」
「俺は、ジェノベーゼで」
雪華、藤助、帝の視線が纏に注がれる。
「わ、わたくしも帝様と同じもので」
「生姜焼きと、ジェノベーゼふたつね。それじゃ、少々お待ちください」
オーダーを伝え、別の客の注文を受け取り、それを届ける。
食べ終わった客の会計を受けつけ、食器を片付け、手早く洗う。
隙間の時間にカトラリを磨き、同時に客のグラスに気を配る。
三分の一ほどに減っていたら、注ぎに行くためだ。
「上がったよー」
「はーい」
藤助たちの料理が出来上がり、まずは生姜焼きを運ぶ。
子供のように喜ぶ藤助にまた笑顔にさせられて、続けてジェノベーゼを二皿運ぶ。
運び終わって、またホールの仕事に戻ると、母が厨房近くに雪華を手招きした。
「はい、雪っちゃん」
手渡されたのは、ピラフだった。
今日は、オーダーされていない。
「これは?」
「今日はこれ食べて、上がっていいわ。ちょうど藤助くんのところが空いてるし、お邪魔してきたらいいじゃない」
昨日までならそれも出来たかもしれないけど、とピラフのお皿を両手に持ったまま雪華は固まってしまった。
「どうしたの?」
「あのね、お母さん、実は……」
雪華は要点だけを絞って、母に伝えた。
幸運にもどの客もゆっくりと食事を楽しんでくれて、スタッフが動く場面がなかった。
「あら……それは、ちょっと気まずいわね」
「うん……」
「でも、藤助くんの方は、気にしてないみたいだけど」
言われて振り返ると、藤助が状況を察したらしく、大きく手招きをしている。
はぁ、とため息をついて、雪華はエプロンを外し、ピラフとスプーンを持って三人のテーブルについた。
「お邪魔します」
「いらっしゃーい」
一口、ピラフを口に運ぶ。
魚介のダシがたっぷりと染みこんでいて、塩気がちょうどいい。
「藤助」
困惑したような表情で、帝が小さく言った。
「ん?」
「お前、真木に告白してフラれたと言っていなかったか」
「おお、ちゃんと断られたぜ」
ご飯をほおばり、飲み込み、またほおばって、忙しい中で藤助が言う。
「なんというか……切り替えが、早すぎないか。この店を選んだ時点でも、俺としては大丈夫なのかと思ったのだが」
「ん~……俺、男女の友情はありえる派だからさ。恋人にはなれなくても、男女の親友にはなれるかもしんねーじゃん。俺が雪華ちゃんに惹かれたのは、恋愛対象としてっていうのはもちろんあるけど、それ以上に人として、っていうことなんだろうな、きっと」
そういう考え方もあるのか、と雪華が感心していると、纏と目が合ってしまった。
まさか、こうして同じテーブルで食事をとることがあるなんてと思ってしまう。
「こうやって帝が俺を慰めて一食おごってくれるっつーのも、友情あってこそだろ? 俺ってば、友情は大切にしたい派なんだよね。お前もそうだろ?」
ニッと笑う藤助に、帝もつられて笑う。