第91話 幕間
「いやはや、こんなにおいしいナポリタンは初めて食べたよ」
400グラムを平らげて、右近の父が満足そうに言った。
雪華は、お店で提供している一人前の3倍近い量を所望されたときも驚いたが、それを食べきってなお足りなさそうにしている姿にまた驚いた。
「ほんと、ほんと。俺達がつくる、ただのケチャップまみれのとは雲泥の差だよな」
右近も満足そうに笑い、父の方は怒るでもなく、いかにも照れくさそうに頭を掻いた。
そのしぐさは、右近のそれと瓜二つだ。
「まさか、砂糖と味噌を加えるだけでこんなにコクが出るとは、驚いたよ。素晴らしい発想だ」
「発想自体は、父の、あるいはもっと前の誰かのものですから」
雪華は謙遜しながら笑顔で応えた。
「木陰で休むことができるのは、遠い昔に誰かが木を植えてくれたからです。だから、受け継ぐからには大切にしたいな、と思ってます」
言いながら、脳裏にかつての王家の紋章が蘇る。
王族の血筋を絶やさぬよう、伝統を汚さぬようにと生きた。
そして、道を踏み外した。
あの日々の経験が今に生きてはいるが、同じ結末にはしたくない。
「なんと立派なお嬢さんだ。聞いたか、マイサン」
「聞いた、聞いたよ。でも、残念ながら我が家には次ぐべき伝統は無いようにも見えるけどね、少なくとも料理に関しては」
「何を言う。ウチのケチャップオンリーナポリタンの味をちゃんと引き継げ」
ガッハッハと大声で笑う右近の父につられて、雪華も右近も声を上げて笑う。
食後のコーヒーは練乳が入っていない、日本のスタンダードなもので、それもみな飲み切ったらしかった。
「それじゃあ、片づけますね」
「いや、雪華は休んでて――」
「おぉ、それはありがとう。じゃあ、マイサンを手伝わせるから、使ってやってくれ」
カチャカチャという音がなるべく立たないように気を配りながら皿を重ね、三人分の皿やカップ、他の食器の類を持つ。
流しに持って行き、静かにそれらを下ろすと、右近が感嘆の声を上げた。
「手際いいなぁ」
「そりゃまぁ、喫茶店の娘ですから」
手伝いにつけられたはずの右近は手を出す場面を見つけられず、雪華はいつものようにてきぱきと皿を洗い、拭き、磨き、棚に戻す。
「このあとは、どうするんだ?」
言われて、雪華は壁に掛けられた古風な時計を見る。
時間は、もう2時を過ぎていた。
「体育祭は終わっちゃってるから、学校に行っても仕方ないし……こっそり家に帰ろうかな」
「本当、ごめんな。ウチのゴタゴタに巻き込んで」
目を伏せる右近に、雪華が口を尖らせて言葉を紡ぐ。
「謝るのはやめてよ。今回の流れをつくったのは私だったし、それに……」
いくつかの言葉が頭の中を駆け巡る。
右近は雪華の言葉を待っている。
「……それに、仮に今回のことが何か喜ばしくないことを招いたとしても、私は、後悔はしなかったと思う。したことの後悔って日に日に小さくなるけど、していないことの後悔は、日に日に大きくなるから」
「そっか……そうだな。俺も、そう思う。ありがとう」
当たり障りのない言葉を選択してしまった、と雪華は胸に小さな疼きを覚えた。
もっと何か、別の――互いの気持ちを確認するような言葉も、今は許されたような気がする。
なるほど、自分の口から出た言葉のとおり、していないことの方が気になって残りそうだ。
「じゃあ、送るよ」
「ううん、今日はやめとこ。二人で一緒に居たら、いかにも二人でサボったみたいになっちゃうでしょ」
事実そうなんだけど、と笑いながら雪華は言った。
「途中で誰かに会ったらどうする?」
「登校途中で眠くなって、公園で昼寝してたってことにする」
雪華が言うと、右近は笑いながら頷いた。
「俺は一日寝坊したことにするよ。どうせ、ゴタゴタの証拠はないしな」
「うん。それじゃあ……また、来週だね」
「そうだな」
キッチン周りの掃除も済み、雪華はバッグを持って玄関に向かった。
右近と、彼の父と挨拶をかわし、第一倉庫の中を一目覗いた。
雪華に気付いた動物たちが、パッと顔を上げる。
「最後は助けに駆け付けてくれてありがと。ばいばい、またね」
雪華が手を振ると、彼らは尻尾を振ったり鳴くなどして応えた。
帰りの道中では、幸いなことに顔見知りに会うこともなかった。
家に着くと、制服が埃っぽいことを母に訝しまれたが、ロッカーが汚れていたからだということにして、雪華は自室に引っ込んだ。
「今日は手伝わなくていいから、ゆっくり休みなさいね」
母の言葉に甘えて、雪華は制服を脱ぎ、軽く手入れをしてハンガーにかけ、自分は楽な格好になって床に寝そべった。
久しぶりの『戦闘』だったなぁ。
約束された反動がゆっくりと全身に膨らんできた。
雪華がゆっくり目を閉じると、彼女はそのまま数時間の睡眠に落ちていった。