第9話 机
雪華は教室を出て、用を足し、一度教室に戻って、それから講堂に向かった。
ネットで調べた通り、こういう集会では、最後まで最前列が空くものらしい。
不思議な習性だ、と訝しみながら、雪華はタンタンとリズミカルに階段を駆け下りて、演台の真正面の席に腰を下ろした。
全体の礼、校長の話、来賓の話――
スムーズに進行していく式の流れがネットに書かれていたとおりで、雪華は感心しきりだった。
それに、なるほど。
これは眠くなって当然だ。
古い時代では立ったまま冗長な話を聞かされていたというのだから、倒れる者もいただろう。
「君主の話は短くあるべし。民の時間をいたずらに浪費するべからず」と教わっていたから、どの国、どの世界でもそういうものかと思っていたが、そうでもなかったようだ。
「これで、始業式を終了いたします。生徒の皆さんは、教室に戻って授業の準備をしてください。なお、時程の変更はありません」
アナウンスが終わると、ぞろぞろと全校生徒が講堂から出て行く。
雪華もその人の波を見送って、落ち着いたあたりで後に続いた。
まっすぐ教室に戻り、自席に向かう。
自席の前に立っていたのは、まるっきり予想通りの人物――にやけた顔を浮かべた纏だった。
「雪華さん、あなた、確か道具を大事にするって言っていたわよね」
「うん、言った」
「それなのに、これはいったいどういうことですか?」
見れば、机が真っ黒く、何かで塗りたくられている。
「黒いね」
「舌の根の乾かぬ内に、とはまさにこのことですわ!」
纏に目もくれず、雪華は顔を近づけ、くんくんと香りを確かめた。
「墨汁と、接着剤……かな。濡れた感じからいって、ついさっきの出来事、って感じだね」
「そのようですわね、でも、すぐに洗い流せば使えるかもしれませんわよ」
勝ち誇った顔で高らかに笑う纏に、雪華はわざと視線を落として小声で言う。
「ちょっと汚れたくらいなら、綺麗にして最後まで使わなくっちゃ、だよね」
「ええ、その通りですわ」
「纏さんも、そう思う?」
「ええ、思いますわ」
「本当に?」
「しつこいですわね、これくらいの汚れ、落として使うべきでしょうが!」
すっと顔を上げて、雪華がにっと笑う。
「じゃあ、頑張ってね」
首をかしげる纏を尻目に、雪華はスタスタと歩いて行った。
足を止めたのは、纏の座席だった。
「あなた、何をしているの? そこは……」
「うん、場所は、纏さんの場所だね。でも、机は私のだよ」
ハッとした纏が、慌てて身をかがめ、黒い机の側面のネームラベルを確認した。
「この机……わ、わたくし、の……?」
顔を白くして、纏が呟く。
「こんなこともあろうかと、始業式の前に机を入れ替えておいたの」
纏は体を起こしたが、その目に力はこもっていなかった。
よろめいたところを、傍にいた女子生徒が咄嗟に支える。
「本日二度目の『自業自得』だね」
かろうじて残っていたらしい気力で雪華を睨みつけたものの、その目に光はなかった。
纏は、フラフラと教室を出て行った。
朝からずっと彼女のそばにいる二人の女子もまた、追随していった。
クラスメイトのほとんどは、朝と同様に呆然としたり、視線を落としたりしていたが、何人かは笑いをこらえるような表情を浮かべていた。
「ちょっと通るよ。ごめんね。汚れないように、気を付けてね」
雪華は周りの生徒に謝りながら、自席の位置にあった纏の――黒く汚れて、変に光沢を放っている――机を、手に汚れが付かないように天板の裏に指をあてて、ちょこちょこと廊下まで移動させた。
そして、本来の自分の机を移動させ、何事もなかったかのように座った。
「笑っちゃ悪いって……」
「でもよ、ちょっといい気味だよな……」
雪華は、ひそひそとした声がした方を見た。
男子二人が、笑っている。
雪華の視線に気づいても、二人は笑みを隠そうとしない。
「ねぇ、そこのふたり」
雪華の声に、二人はぎょっとして表情を失った。
「本人がいないところで嘲笑するのは、彼女と性根が一緒だよ。」
雪華がぴしゃりと言い放つと、二人はばつが悪そうに前に向き直った。
やれやれと雪華がリュックからタブレットを取り出し、授業の準備をしていると、視線に気が付いた。
視線の主は藤助で、目が合うと、親指を立てて、にっと笑って見せた。
つられて雪華も笑ってしまう。
どうやら、そこまで悪い人間ではないのかもしれない。
見ていると、藤助は親指をしまい、代わりに出した人差し指で、横をさした。
視線を動かすと、先にいたのは帝だった。
ぱっと前を向き直した様子で、それまで雪華の方を見ていたらしい。
視線を戻すと、藤助は肩をすくめて前に向き直った。
「おーい、廊下の黒い机、ありゃなんだぁ?」
2時間目を担当する教師が、教室に入って来るや間の抜けた声を挙げた。
作者の成井です。
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