第87話 腕相撲
「お待たせだ!」
豪快に笑いながら、右近の父が戻ってきた。
大きなカップに、半分ほど注がれたコーヒーが入っている。
『シャングリラ』で淹れているコーヒーとは雰囲気が違うが、香りの高いコーヒーだ。
「喫茶店のものとは比べられないと思うが、なかなかウマイぞ、うちのも」
陽気に笑う右近の父に釣られて、雪華も笑顔になる。
「いただきます」
カップを近づけると、コーヒーの香りとは違う、甘さが鼻腔をくすぐる。
一口含むと、その香りのとおり、濃い甘さがじゅわっと広がる。
「甘い……砂糖ではないですよね」
「練乳さ」
右近の父が白い歯を輝かせる。
「東南アジアでは、わりとポピュラーな飲み方でね。深煎りと合わせるのがコツなんだよ」
「そういえば、世界中を旅してまわっていらしたと聞きました」
雪華が言うと、右近の父は二っと笑い、ぐっとコーヒーをあおった。
まだかなり熱いはずだが、と驚きながら雪華はもう一口飲む。
やっぱり、まだ熱い。
「その通りだ、プリティガール。僕は世界中でいろいろなものを見てきた。美しいもの、恐ろしいもの、現代科学では解明できそうにないふしぎなものをね」
彼の目の色が変わった。
それは、かつての剣の師の目に似ていた。
「息子から君の話を聞いて、実は思い出したことがあってね」
雪華がちらと横目で右近を見る。
右近もどうやら見当がないらしく、小さく首を横に振った。
「さて、プリティガール。僕と、腕相撲をしよう」
「は?」
反応したのは右近だった。
「父さん、女の子の手に触れたいからって、そんな馬鹿な話はないだろう」
「何を言う、マイサン。お前と違って、ガールズの手に触れることなんぞ、気にならんわ」
「じゃあ、なんだっていきなり腕相撲なんだよ。雪華の腕の細さを見ろよ。父さんの丸太みたいな腕と組んで、勝負になるはずがないだろ」
右近の言葉に、父がにやりと笑う。
「さて……それはどうだろう。なぁ、プリティガール」
なぜ、彼の目を師と同じように感じたのかが、はっきりと分かった。
資質を見抜く、という年長者にとって極めて重要な能力を、同じようにもっているせいだ。
右近の父は、自分が瞬間的に能力を高められるということを、なぜか見抜いている――というよりも、知っているのだ。
「えっと、でも……」
「気にしなくていい。勝ってくれて構わんよ。その方が、後の話がスムーズになるからね」
雪華は、無言で頷いた。
右近が何か言いかけたが、言葉を見つけられず、肘をついて構えた二人の手の上に、自分の手を乗せた。
「レディ」
雪華は神経を高ぶらせる。
首筋に敵の刃の切っ先が、ほんのわずかに触れた、あの、温度がない感触を思い起こす。
『臨死の感覚』によって、『生への渇望』が沸き立つ。
春の体育祭のときよりも、はるかに強く――
「ゴッ!」
勝負は一瞬で終わった。
径が三倍は太いはずの、右近の父の手の甲がテーブルに音を立てて着いた。
あまりの強さに、衝撃が伝わり、口をつけられていなかった右近のコーヒーが揺れ、あふれた。
その右近は、たった今目の前で起きた出来事が信じられず、口が半開きになっている。
「オー……まさか、ここまでとは。多少は勝負になるかと思ったんだが」
父の言葉に我に返り、右近が口を次ぐ。
「嘘だろ? 父さんが手を抜いたのか?」
「いや、僕は全力だったよ。単純に、この腕の細い少女のパワーが圧倒的だっただけで」
右近の視線が雪華に移る。
「……マジ?」
「……まじ」
顔の熱さを感じながら、雪華は小さく頷く。
「さて、ちょっと説明が必要だろうね」
手をぷらぷらと揺らし、手の甲に息を吹きかけて、右近の父が座り直す。
「君が水族館で活躍した話、右近に見せたという体術、そして春の体育祭とやらで発揮したという驚異的な身体能力……それらはきっと、特殊な方法で限界を超えた力を引き出したものだ。そうだね?」
驚きながら、雪華は静かに頷く。
「僕は世界を旅する中で、同じようなことが出来る人と出会ったことがあるんだ」
雪華も、横に座る右近も、神妙な顔で耳を傾ける。
「アメリカには顔を隠して人助けに励む人がいたし、アフリカでは密漁ハンターを懲らしめるために奔走する人がいた。中東では無敵の傭兵と呼ばれる人がそうだったね」
ただ、と息を吐いて、彼は言葉を次ぐ。
「そのうちの誰もが、死と隣り合わせの生活を送る中で、突如その力に目覚めたと言っていた。だから、この平和な国で過ごす、年端もいかない君のようなプリティガールが、なぜその力に目覚めたのかは、僕には分からないが……」
腕を組み、彼はなおも続ける。
「その力を使えば、今回の面倒事は、うまく片付けられると思うよ」