第80話 夏
「ということで、夏の体育祭は全校一斉マラソン大会になった」
ホームルームで担任が話すと、クラス中がどよめき、あちこちでブーイングが始まった。
「ブーブー言うなって、先生も走るんだから」
ため息交じりに担任が続ける。
「校長直々なんだよ。春の体育祭でみんなと走ったのがお気に召したらしくて、生徒どころか先生達も走らされることになってな。ただ、一応配慮はされるらしくて……」
言いながら配布されたプリントを見て、生徒は読みながら頷いている。
後ろの席で待ち構えていた雪華の元にもようやくプリントが届き、さっと目を通す。
「60分一本勝負、コースは5本用意しているので、自分の体力に合わせて参加するべし。めざせ60分ピッタリゴール」
小声で読み上げながら、隣の牡丹を見る。
牡丹はこくこくと頷いた。
「一番短い4キロっていうのは、成人男性の平均歩行速度だね。反対に、最長の20キロは、ちょっとありえないかな」
「どうして?」
「1時間で20キロ走るってことは、2時間でフルマラソン走り切るくらいってことだよ? オリンピックレベルだよ、そんなの」
なるほど、と頷きながら、雪華は他のコースを見る。
「4、8、12、16、20か……好きなのにエントリーしていいとなると、どうしようかな。牡丹は?」
牡丹が大きくため息をつく。
「さすがに20はないとして、陸上部はたぶん、強制的に16になると思うな……時速16キロって、結構ハードだ……」
「私は4キロ一択」
前に座る紅葉が振り返りながら小さく言う。
「マラソン大会なんて言うから休む気マンマンだったけど、まぁ、散歩だと思えばありよね」
「ふむ……」
視線を前に向けると、あちこちで近くのクラスメイトとの相談が始まっている。
右近はどのコースを選ぶんだろうか。
春は走り高跳びでいい成績を収めていたはずだが、走るのは得意なんだろうか。
そもそも、参加せずに欠席するという可能性の方が高いかもしれない。
次会ったときに、聞いてみようかな。
「雪華は?」
「へ?」
「雪華はどのコースにするの……って、なんて顔してるのよ。話の流れから言って、普通のことを聞いてるだけでしょ。最近、あなたちょっと変よ」
紅葉が首を傾げながら言った。
「ちょ、ちょっと違うこと考えてて……そうだな、私は……8キロとかでいいかな。普段のランニングコースがそれくらいだと思うから」
「体育祭のニューヒロインとしては、20キロいかなきゃでしょ?」
「いいよ、注目されたいわけじゃないし」
ケラケラと笑う牡丹に、雪華は苦笑で返した。
視線を前に移し、黒板に表示されている日付を見る。
今日は金曜だから、ちょうど、右近のところに行く日だ。
日中の授業はあっという間に終わり、休み時間は昼も含めて夏の体育祭のことでもちきりだった。
「そういえば、今回は連中もおとなしいものね」
一足早く昼食を終えた紅葉が言う。
連中、というのは纏や帝たちのことだろう。
「春は、雪華を貶めるためにいろいろと画策してきたんでしょう?」
「ことごとく失敗して諦めたのと、私に興味がなくなったのと、彼らは彼らで忙しくなったのと、まぁ、理由はいろいろじゃないかな」
雪華は弁当箱を片付けながら言葉を紡ぐ。
一方、牡丹は口いっぱいに入れたご飯をお茶で流し込んで、胸をたたきながら口を開いた。
「ま、私としては、あれがきっかけで雪華と仲良くなれたし、怪我はしたけどすっごく楽しかったけどね。去年の体育祭が最悪でトラウマだったのに、なんか変な感じだけど」
「去年が最悪だったから、じゃないかな」
雪華が呟き、言葉を次ぐ。
「闇から出てきた人でなければ光のありがたさは分からない、っていう言葉を聞いたことあるよ」
「あら、いいこと言うわね」
紅葉が感心して頷く。
「そういうことが言えるようなら、まだ大丈夫かしら。どうにも、ここ2週間くらいの雪華はキレがなくなってるというか、抜けてる感じがしてたから」
「朝も言われたけど、そんなに変わったかな。自分では分からないんだけど」
言いながら、雪華は牡丹を見た。
牡丹は、んー、と天井を見て、それからあらためて雪華を見る。
「ま、やっぱり例の丹下くん絡みだとは思ってたけど。でも、彼氏が出来て心ここにあらず、なんてよくある話だし、私は別に気にならないかな」
「かれし、ではないんだけど」
雪華が言うと、牡丹と紅葉が目を合わせてにやりと笑った。
「ま、そういうことにしときましょうか」
「そうね、そういうことにしておきましょう」
「ここ2週間でおかしいのは、私じゃなくてふたりのほうでしょ、もう」
それに、なんとなく調子がおかしいのは自分でわかってるよ、と雪華は自覚していた。
何かと、右近のことが気にかかってしまっている。
さっきもそうだ。
事あるごとに、右近だったらなんて言うだろうか、右近だったらどうするだろうか、という思考が始まる。
そんな風に考えながら、頭には彼の顔が浮かんでしまっているのだから、つける薬もなさそうだ。