第6話 一歩
頭に血が上った、と誰の目にも明らかなほどに顔を赤くして、纏が手を振り上げた。
十分に引き絞られた弓の弦が解放されたように、平手が雪華に向かってくる。
纏は感情的になると、すぐに手を出す。
それも、決まって右手で平手打ちをする。
日記に、そう書いてあった。
対策が必要だな、と思っていた日に店内を見ていたら、喫茶『シャングリラ』には、かわいらしい観葉植物が何種類も置かれているのに気が付いた。
サボテンが、何種類もあった。
その中で、もっとも鋭く、先端に返しがついている棘を選び、拝借した。
そして、触れれば取れてしまう程度の粘着力に薄めた両面テープで、髪留めに接着しておいた。
それにしても、スローモーションだ。
事前に予想していたから、ということもある。
だがそれ以上に、前世の経験が大きかった。
何せ、真剣を用いての武術訓練を積み重ね、近衛騎士団長とも互角に切り結んでいたのだ。
雪華の身体感覚とラシャンテの経験・知覚を擦り合わせるのには時間を要したが、甲斐はあった。
今なら、纏の手を取って投げ飛ばすことも、一息早く喉笛に突きを見舞ってやることも、回り込んで頸椎を圧迫してやることも、なんでも出来る。
でも、今は、弱者である雪華が、強者である纏に一泡吹かせるという構図にしたい。
ようやく平手がすぐそこまで来た。
雪華は――「きゃっ」と可憐な悲鳴を上げ、いじめられっ子の危機を演出しつつ、お手製の髪留めで平手を受けられるように体をひねった。
「痛ぁぁっっっ!?」
棘は、見事に髪留めを離れ、纏の手のひらに突き刺さったようだ。
雪華の表情に思わず笑みがこぼれる。
上出来だ、という満足の笑みだった。
「鼻毛が出ている」などと、女――特に、大金をかけて髪を整えているであろう女――としては恥でしかない指摘をされ、逆上し、暴力を振るったにも関わらず返り討ちにあう。
それに対して、弱者であるはずの雪華は余裕の笑みを浮かべて、平然としている。
これでいい。
衆人環視の中、恥を掻く。
かりそめの権威など、この程度のことで失墜の一歩を踏み出すものだ。
間違いなく、「加賀纏は鼻毛が出ていた」「真木雪華に痛い目にあわされた」という二つの要点が噂となってかけめぐるだろう。
復讐の第一歩としては上々だ。
「真木雪華……! あんた、このわたくしにこんなことをして、どうなるか分かってるんでしょうね!」
雪華は、肩をすくめた。
相手の苦悶の表情、そして憎悪の視線とは対照的に、雪華の態度は涼やかだ。
この差を演出することが重要なのだ。
「見当もつかないわ。教えていただけるかしら、いじめっ子の加賀纏さん」
痛みと怒りでさらに顔を歪めて、纏が雪華をにらむ。
一方、雪華は、纏の手のひらに無数に刺さったサボテンの棘を見て感心していた。
うんうん、自分で工作するのはあまり経験がなかったけれど、良い出来だったわね。
この世界には便利なものがたくさんあるから、他にもいろいろな物をつくれそうだし。
「痛そうね~。予想していたよりもたくさん刺さって、びっくりしちゃった」
「あなた、こんな……棘を髪留めに貼っておくなんて、頭おかしいんじゃないの!?」
手のひらから棘を抜こうとし、さらに食い込ませて、纏の眉間にしわが寄る。
「すぐに手が出る方が、おかしいと思うけれど……私はただ、あなたの平手打を髪留めで受け止められるように、ちょっと体を動かしただけよ? こうなることを想定して、ちょっぴり工作はしたけれど」
雪華はクスクス笑いながら、言葉を続ける。
「それに、そんなに深く、しかもたくさん刺さるっていうことは、それだけ容赦なく私を叩こうとしたってことでしょ? そういうの、たしか『自業自得』って言うのよね」
纏の歯ぎしり。
取り巻きが息を呑む音。
そして、沈黙。
後ろ手を組んでにこにこ笑う雪華に向かって、纏が声を震わせた。
「帝様も、何かおっしゃってやってください! 婚約者が侮辱されたのですわよ!」
纏のすぐ後ろに立っていた男子生徒――美和乃 帝が、二歩、三歩と歩み出る。
美和乃 帝。
国際的な影響力をもつ財閥 美和乃コンツェルンの御曹司で、彼についての情報はインターネットで調べることができた。
幼少期から様々な教養を叩き込まれ、専門的な訓練を受けてきた男。
他に類を見ない万能さで、スポーツ、芸術の分野を問わず数々の栄光を手にしてきた。
さらには、整った容姿でファッション誌にも幾度と取り上げられている。
――でも、まぁ、修羅場をくぐった、という精悍さはないわね。
「俺と結ばれる資格があるのは、最高の女だけだ」
追い越し際に冷たい視線を投げかけられて、纏は口をつぐんだ。
そして、その視線が雪華に移る。
ルックスは悪くないと思うけど、どこか子供っぽいというか、幼い感じがするなぁ、と雪華は心の中で首を傾げた。
「加賀グループの令嬢に歯向かい、恥を掻かせるとは、面白い女だな」
どうやら帝は、纏が傷つけられたことについては、他人事らしい。
婚約者が恥を掻かせられた直後の殿方の態度ではない。
まぁ、でも、婚約者っていっても、色々な形があるしなぁ――罪人と処刑人の関係、とか。
「あんたなんか、学校中に嫌われるように仕向けてやるからっ!」
帝の陰に隠れて、纏が甲高い声を発した。
顔をしかめながら、帝が口を開く。
「……だそうだが」
「学校中……ってことは、400人くらい? それなら、なんてことないかな」
そう言って、雪華は歩き始めた。
つか、つか、歩を進め、帝の前で足を止める。
周囲の緊張感がにわかに増す。
「手枷をしたまま国中の人々に罵詈雑言を浴びせられて、さらにギロチン台に固定されでもしたら、ちょっとは応えるかもね」
雪華は、満足そうに笑った。
その微笑みを見て、帝はいぶかしんだ。
後ろの纏の顔にも、痛みや怒り以上に、困惑が強く表れていた。
困惑していたのは、帝と纏だけではない。
一部始終を見物していた野次馬達も、誰もがみな、状況を理解できずにいた。
何をどうすれば、引き篭もるまでいじめられ続けた人間が、ここまで強烈にやりかえせるというのか。
「1年生のときとは、まるで別人だぞ……」
野次馬のつぶやきが聞こえて、雪華は笑みを噛み殺した。
「そろそろ、私、教室に行くね。何せ、取り戻さなくちゃいけない遅れがあるから」
じゃね、と帝に向かって手を振って、雪華は颯爽と校舎に入っていった。
一連の出来事にくぎ付けになっていた生徒達は、火の粉が降りかかる前にとそそくさとその場を離れ、教室を確かめるや否や、足早に校舎に入っていった。
纏は、自身に付き従う二人の女子に八つ当たりしながら、保健室に向かった。
帝は、いつの間にそうしたのか、無意識に胸に当てていたらしい手に気づき、ハッとなって手を離した。
作者の成井です。
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それでは、また次のエピソードで。