第5話 始業
「本当に大丈夫なの?」
母が心配そうに呟く。
同じセリフを、この一週間だけで百回は聞いたような気がする。
「平気、平気。あれから数ヶ月、私がどれだけ自分を高めてきたか、ふたりともずっと見てたでしょ」
腕を曲げて力こぶをつくる雪華を見て、母は寂しそうに笑う。
「それはそうだけど……やっぱり、まだ、少し心配だわ。ほら、髪留めだって少し曲がって」
「あっ、駄目!」
伸ばした母の手を、即座に雪華の手が掴む。
「この髪留めには『おまじない』をしてあるの。私以外が触ると、魔法が解けちゃうからさ」
えへへ、と笑う雪華に、母はきょとんとするばかりだ。
「ほら」
父が厨房から出てきて、包みを差し出した。
「始業式から、早々に午後まで授業があるんだろう。持っていけ」
喫茶『シャングリラ』特製のお弁当だ。
父が毎日、手の込んだお弁当をつくってくれていたことを、雪華はもちろん知っている。
「ありがとう。それじゃ、行ってきます!」
弾けるような笑顔で家を出て行った娘を、両親は心配そうに見送り、それから顔を見合わせた。
「雪っちゃん、本当に大丈夫かしら」
「まぁ、なるようにしかならないさ」
そして二人はまた、2年生になった娘が出て行った扉を眺めるのだった。
高校までの道のりは、すべて頭に入っている。
去年のクラスメイト、先生方の名前、小・中学校での出来事、すべてインプット出来ている。
強い胸の高鳴りは、緊張ではなく高揚のためだ。
生まれ変わった雪華は、足早に自転車のペダルを漕ぐ。
初めはどうやっても転んでしまいそうに見えたものだが、体は乗り方を覚えていた。
「あれ……」
「今のって……」
追い越しざまに、背中につぶやきが届く。
それを気に留めず、雪華は高校へ向かう。
駐輪場に自転車を停めて、二重にロックをし、真新しいリュックを背負って颯爽と歩く。
「ま、真木さん……よね?」
「もう、大丈夫なのかな……?」
雪華の姿をあらためた数人が、こそこそと言葉を交わしている。
「でも、なんだか雰囲気が違うよな……」
「なんていうか……」
その男子は、言葉を飲み込んだが、赤らんだ頬は隠しようがなかった。
いや、その男子ばかりではない。
雪華の立ち姿、あるいは所作、あるいは内側から放つ輝きが、同年代の男女を否応なく惹きつけた。
雪華はといえば、まるで動じない。
注目を浴びることには、ずっと昔から慣れているからだ。
自分のご機嫌を伺いに声をかけにくる者がいないことこそ新鮮だった。
ちらっと視界の端に意識を向けると、好意的な好奇の目で雪華を見ている生徒が多いのが分かる。
つい鼻が高くなってしまいそうな状況ではあるが、ここで調子に乗ってはいけない。
ちやほやされて高飛車になり、刹那的に支配者気分を味わっても、その人生は断頭台に伸びている。
他者を助け、清く正しく生き、人に愛されて、幸せになる。
それが、雪華の人生目標なのだ。
「私のクラスは……2年A組、か」
単位はギリギリだったようだが、進級できたのは良いことだ。
父親と母親が喜んでくれたから。
正直、1年生からスタート出来た方が何かと都合が良いようにも思われたが、あのふたりが嬉しそうに笑い、お祝いのケーキ――宮廷の司厨長がつくったものよりも美味しかった――をこしらえてくれたのだから、進級が良いことであるのは間違いない。
「あ~ら、誰かと思ったら、真木雪華さんじゃない」
初めて聞くのに、耳に馴染みのある声がした。
体が、身震いをした。
刷り込まれた条件反射だ。
恐怖が思考を通り過ぎて、直接、神経に作用しているのだ。
ふーっ、と息を吐いて、雪華は振り返る。
「……」
雪華は、あえて何も言わなかった。
そして、表情を殺した。
知っているからだ。
他者を支配したがる人種は、相手が反応しないことこそが腹立たしいということを。
だが纏は、雪華が恐怖で口がきけないと踏んだらしかった。
「ずっと誰ともお話ししていなかったから、口がきけなくなっちゃったのねぇ、かわいそうに!」
言って高笑いする纏に、雪華は悠然と歩み寄った。
纏の表情が引きつる。
「何を……」
「……」
雪華は、わずかに笑みを浮かべ、じっと纏を見つめた。
高圧的な態度というのは、詰まるところ、虚勢という名の鎧だ。
困惑によって、あっさりと剥がれ落ちる。
そして困惑とは、予想外の状況に陥れば、むくむくと頭をもたげるものだ。
「庶民の分際で、私に気安く近づいていいとでも……」
「ねぇ」
纏の言葉を遮って、雪華が呟く。
それは大きな声量ではなかったが、周囲が固唾を吞んで静寂をつくってくれているおかげで、誰の耳にも届いた。
経験による事態の想定は、面白いほどに的中している。
きっと、この先の展開も、雪華が思い描いていた通りになるだろう。
この不遜ないじめっ子がどこまで零落していくかは、纏本人次第だろうが、それは知ったことではない。
そして雪華は、もっとも効果的な一言を、周りにも聞こえる声で発した。
「鼻毛、出てるよ?」
作者の成井です。
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それでは、また次のエピソードで。