第43話 善行
雪華は困っていた。
まさか目の前で、いい年の男子学生が涙を流すとは思っていなかったからだ。
ましてやそれが、あの寡黙な、というより無口な津軽 蔵人であるということが、雪華の困惑をより強いものにしていた。
どうしてこんなことになったんだっけ。
雪華は走馬灯のように記憶を辿った。
ハッピーエンドの条件は、考えても考えても、調べても調べても、答えが出なかった。
義妹が幸せになれた条件について考えてもみたが、あの世界、つまり『プリンセス☆レボリューション』はしょせん虚構なのだから、という思考に至るとそれ以上考えられなかった。
結局雪華は、こちらの世界にきたときに結論付けた「他者を助け、清く正しく生きる」に立ち返ることにした。
だから、その日の帰り、生徒玄関に落ちていた財布を拾い、それを職員室に届けにいくのも、善行の一環として当たり前のことだった。
「財布を落とすなんて、抜けたやつもいたもんだなぁ」
対応してくれた教員が、笑いながら中を見た。
あとは任せようと立ち去る雪華を、彼は呼び止めた。
「あ、ちょっと待ってくれ。この、津軽って、真木と同じクラスじゃなかったか」
「ええ、同じクラスです」
「届けてやってくれないか」
逡巡した。
まず、彼の家を知らない。
次に、同級生がやることとして一般的ではない。
さらに、まだ土地勘がないので、自信がない。
しかし、善行であることは間違いない。
瞬間的な思考の末、雪華がたどり着いたのは笑顔と一言だった。
「分かりました」
その場で、教員と一緒に住所を確認し、スマホの地図アプリに入力する。
帰り道とはまるで反対方向に、自転車で二十分くらいの場所だった。
「バスケ部がやってりゃ体育館に届けるだけで済んだんだけど、今日は休みらしいし。かと言って、手元に財布がないんじゃ心配だろうし。行く前に、これから財布届けてやるって連絡してやってくれ」
「分かりました」
雪華は教員に感謝を述べて、再度玄関に向かった。
そして、ため息をひとつ。
一緒に体育祭に出場した間柄なのにというべきか、彼の連絡先を知らないのだ。
事前に連絡する方法がないので、とりあえず行ってみるしかない。
藤助や帝なら彼の連絡先を知っているのだろうが、今日に限って二人とも、早々に下校してしまっていた。
牡丹の顔が浮かんだが、今頃グラウンドで練習に励んでいるだろうし、彼女が知っているという確証もない。
「行ってみるか」
こうして、雪華は地図アプリの指示に従って自転車を漕ぎ始めた。
見慣れない道をぐんぐん進む。
風景は随分変わって、住宅地というには少し寂れた、古い家が並んでいる一帯にたどり着いた。
喫茶『シャングリラ』が、閑静な住宅街の中に建っているだけに、反対側がこんな街並みになっているとは思いもしなかった。
ペダルをこぐ速さを緩めて、雪華は周囲を見渡しながら進んだ。
「あそこ……かな」
自転車をいったん止めて、スマホの画面を見る。
何軒かの家が立ち並んでいるのが、自分の右手、道路を挟んで向こう側だ。
※道路交通法第17条第4項「車両は、道路(歩道等と車道の区別のある道路においては、車道)の中央から左の部分を通行しなければならない」
さらにその先、十メートルほどの空間を隔てて、ぽつんと古い一軒家が建っている。
アプリが示しているのは、あの家だ。
もう少し進み、表札があるかどうかを確認してみる。
「津軽」
あった。
どうやら、ここで間違いなさそうだ。
車の通行の邪魔にならないように自転車を停め、一応ロックをかける。
思えば、他の誰かが住んでいる家を訪ねることなど、前世から数えても初めてのことだ。
にわかに緊張する。
確か、普通は家に呼び鈴がついているはず――
「(~~~~~)!!」
中から、怒鳴り声が聞こえてきた。
女性の声だ。
呼び鈴に伸びた手が、思わず止まる。
「(~~)!?」
「(~~~~)!」
応酬が始まったらしい。
女性と男性の声、ということは、男性の側の声の主が蔵人なのだろうか。
機を逸してしまい、中途半端に手を伸ばしたまま、雪華は留まる。
そして、気付いた。
言葉が違う。
この国の言葉であるのは間違いないのだが、雪華が日常的に使っている言葉とは決定的に違った。
「……方言?」
こちら側に来てすぐ、まずは言葉について理解しようと思って調べた。
そのときに、この世界には方言という、地域ごとに特色のある言葉が根付いていることを知った。
そしていろいろな動画を見たり、解説を読んだりして、聞いて理解することはある程度出来るようにもなった。
雪華は、あらためて耳を澄ました。
かなり訛りのきつい、東北地方の言葉だ。
「(雪華訳)部活がないなら、ないって言っておいてよ!」
「(雪華訳)今日、急に休みになったんだから、仕方がないだろう!」
「(雪華訳)これから彼氏が遊びに来るのに、あんたが居たらマズいじゃん!」
「(雪華訳)俺が自分の家に居て何が悪いんだ!」
「(雪華訳)そもそもあんたがこんな場所にある高校を選んだからでしょ!」
「(雪華訳)特待奨学金に釣られたのは母さんのほうだろう!」
日を改めた方がいいような気がしてきた。
いやいや、他人の財布を持って自分の家に帰るわけにはいかない。
かと言って、この家の中に入っていくのはいかがなものか。
ガラッ。
不意に扉が開いた。
扉から上に額がはみ出ているが、それは蔵人だった。
作者の成井です。
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それでは、また次のエピソードで。