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遠くの鐘

静かな森の湖のほとりで、ミハイロとジーナは釣りをしていた。


ジーナの籠には何匹も魚が入ったが、ミハイロの籠にはまだ一匹しか入っていない。ミハイロは退屈そうに釣り糸を垂らし、ジーナは真剣に湖面に浮かぶ浮きを見ていた。


ジーナの弟であるミハイロは、8歳になり、旅人から仕入れた廉価なものを村人に売りつけたりと、ひとりで商人のまねごとを始めていた。がらくたのようなものばかりだったが、ミハイロは愛らしく元気な少年で、彼の家が貧しいことは皆が知っていたので、老若男女の村人が彼の商品を買ってやっていた。


彼はジーナやイーゴリと違い、魚を釣るよりも、売る方に向いているらしい、とジーナは気がついていた。しかし魚は釣れなければ売れない。魚を売りたいという弟のために、ジーナは時たま釣りに付き合ってやっている。それはあの家に残した弟妹を気遣ってのことでもあった。

ジーナの仕送りもあり、暮らしぶりは人並みに近づいた家だが、父親と母親は相変わらず喧嘩ばかりで弟と妹を躾ける暇もない。一家と弟の将来のため、せめてミハイロの商才をのばす助けはしてやろうと、ジーナは忙しい毎日の最中、伯爵に頼んで暇を貰っている。


「ミハイロ!」


ジーナとミハイロが静かに魚を待ち構えている時、一人の少女の声が聞こえた。ジーナが振り返ると、ミハイロと同じ年頃の少女が、姉と一緒に森を歩いていた。薪を抱えた彼女は、ミハイロに笑顔で手を振っている。ミハイロも彼女の名を呼び、へらへらした笑顔で手を振り返した。姉妹は用事があるようで、そのまま村の方に向かっていった。


ミハイロは少し上機嫌になり、口笛を吹きながら、湖面に視線を戻した。幼いながら、最近ミハイロが村の少女に人気だと城で耳にしていたジーナだが、なんとなく弟の未来の姿が見えてきてしまった。


「あんまりいい顔をしすぎると、痛い目に会うぞ」


「?」


ジーナの忠告の意味が分からず、ミハイロは首を少し傾げた。


「いや、まだ早いか…」


十にもならない子供に話しても仕方ないと、ジーナは首を振り、釣り竿の先に視線を戻す。


「ところで…」


ジーナが釣り竿を引き上げた時、ミハイロが何気なく口を開いた。


「ジーナは伯爵様の奥方にならないの?」


釣り針を魚の口から外していたジーナは、一瞬手を止めた。


「くだらないことを言うな」


ジーナはふたたび手を動かし、ミハイロの方を向いて答えた。ジーナの表情はいつもどおりの無表情だった。


「どうして?」


ミハイロは無邪気に返す。ジーナは天真爛漫で、早くも色気づいた弟にため息を付いてから、魚を籠に放り投げ、語り始めた。


「お前がそういうことを言うと、イヴァン様に悪い噂が流れる。イヴァン様に失礼なことは言うな。母さんや父さんが家でなにか言ってるのかもしれないが、あのひとたちの言うことは真に受けるなよ。」


「ふうん…むずかしいね」


ミハイロはとぼけた顔で答える。しかしミハイロはジーナの言いつけは素直に守るので、滅多なことは言わなくなるだろう。


「最近城のみんなまでうるさくて、イヴァン様が気の毒だ。イヴァン様は女性が苦手だし、伯爵様が平民を娶るわけもない。」


ジーナは釣り竿をふりあげ、また湖面に糸を垂らした。ジーナの口調は淡々としていたが、姉が不満を漏らすのはめずらしく、ミハイロは好奇心から口を開いた。


「ジーナは伯爵様のことがすきじゃないの?」


「…すき?人としては好きだが、恋だの愛だの、身の程知らずな気持ちはないさ。」


浮きを眺めながら、平坦な声でジーナが答える。ミハイロは納得いかない様子で、食い下がった。


「でも、ジーナがそんなに怒るのは、伯爵様のことだけじゃないか…」


ずっと無表情だったが、自分に注意したときのジーナは、確かに怒っていたと、ミハイロは気がついていた。当のジーナは、湖面を見つめながら弟の言葉について考える。


(イヴァン様のことだけ、じゃないだろ)


しかし言われてみれば、伯爵に関することになると、自分は怒りを感じやすいとジーナは思った。その理由について、しばらく黙り込んで自問自答したあと、ジーナは口を開く。


「私はイヴァン様を、一番………、人として尊敬してる」


尊敬?と、まだ9歳のミハイロは、また首を傾げた。


「そうだ。だから…」


ジーナは自分の心をさぐりながら、言葉を続けた。


「だからずっと、イヴァン様の側に仕えたい」


「それって、」


「イヴァン様に恋だ愛だの気持ちがあるなら、奥方になりたいとか、あの人に触れたいとか思うんだろ。」


ジーナは、ミハイロの言葉を遮り、昔見た兄の恋を思い出しながら話す。ジーナが想像する恋愛というものは、幼い頃、間近に見た兄の儚い春の日々だった。あとは、酒場や食堂で聞く、村の娘たちや青年たち、酔っぱらいの噂話だ。


「私はこのまま、イヴァン様の小姓だか、城の手伝い人だかとして、イヴァン様を支えたいんだ」


ジーナは独り言のように、彼女にとっては野望である願いを口にした。きらきらと光を反射する瞳は、さざ波が立つ湖面を静かに見つめている。


「ふう〜ん…。そう………。まあ………、奥方様じゃあ、お給料貰えないもんね!」


ミハイロはジーナの想いはあまり理解できず、彼なりの論理をつけて、勝手に納得したように頷いた。


ジーナはといえば、魚が針にかかったので、釣り上げるのに必死で、伯爵のことはわすれていた。


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