貴公子たちの音楽会
徐々に汗ばむ暑さの日が増える頃。涼しい夜風が吹く時間に、伯爵は、馬で半日ほどの場所にある、貴族の友人の屋敷を訪れていた。月に一度ほど、貴族の友人数人で行っている「夜の音楽会」のためだ。「夜の音楽会」とは、各自楽器を持ち寄って一緒に演奏を楽しむ、彼らの貴族らしい遊びである。
伯爵はこれまでジーナも連れて音楽会に参加していたが、今日はジーナを毎回連れて行くのも彼女に悪いと思い、ジーナは城に残し、音楽好きだという護衛の兵士を代わりに連れてきている。
参加者の中には女癖の悪い貴族も居り、出会った頃に比べるといくらか女性らしい外見となったジーナに彼が言い寄らないかという懸念も伯爵がジーナを置いてきた理由の一つだった。
無論、彼は嫌がる女性に無礼を働くような友人ではないが、いつも伯爵の世話や城の雑用、勉強で疲れているジーナを彼女が興味がない音楽会に連れてきて、わざわざ不快な思いをさせたり疲労させたくない、と伯爵は勤勉な小姓を気遣っていた。
しかしやや遊び人であることを除けば、参加者は皆、度々怪しい挙動をしたり、ふさぎこんだりする伯爵を友人と考えている、気の良い青年たちであった。
今日音楽会が行われる伯爵の友人の屋敷は、数年ほど前に建てられ、伯爵の幽霊城よりもきらびやかな館だった。木細工の上に張られた金箔が煌めき、西から真新しく繊細で華麗な様式を取り入れた屋敷の一室から、弦楽器や笛の旋律が響く。伯爵と友人たちは円形に座り、それぞれの楽器を奏でていた。
貴公子たちの優美な遊びに、いいご身分だと妬ましさを感じながらも、廊下を掃除する使用人は耳をそばだてた。優雅で繊細なバイオリンの旋律は、遠い西の異国の王国や帝国の華々しい都への憧れを搔き立てたが、その中で聞こえるバンドゥーラの音は、哀愁を漂わせ、郷里の草原や湖、大河の景色を思わせた。
数曲を演奏した後、彼らは休憩を取ることにする。伯爵はバンドゥーラを膝に乗せたまま、テーブルの上のウォッカのグラスを右手で掴んで飲む。伯爵の隣りに座る、バイオリンを弾いていた友人が口を開く。帝国の貴族から外国人の貴婦人までと、多くの浮名を流す例の女癖の悪い青年だった。彼は少し高めの心地いい声で、伯爵に尋ねる。金色の長い睫毛に縁どられた、大きな碧い目は好奇心に輝いていた。
「今日はあの子はいないのかい?」
「ジーナには最近色々と手伝ってもらっていてね…。その上、聖歌隊の練習にも連れまわしている…。それで、疲れているだろうから、今日は連れて来なかったんだよ。」
伯爵は青年の方を横目で見て答える。青年はそうかい、と言って瞬きした後、口角を少し上げて揶揄うように言った。
「まさか私を警戒して置いてきたのかと思ったよ」
「は…はは。そ、そんなことはないさ…」
伯爵は少し震えた声で否定したが、大きな目がギョロギョロと動き回っており、ウォッカの水面も揺れてるので、皆図星だと察した。
「さすがの私も、友人の小姓に手は出さないよ。まあ、あの子は君以外に無関心そうだから、声をかけたところでなびかないだろうけどね」
「ジーナは無関心なわけではないさ。彼女は色々と物事を考えているし、周りをよく観察している。ただ感情の波が小さくて、賢明だから、声や表情にそれを出さないだけなんだ。」
ウォッカの水面を見つめながら呟く伯爵に、青年はふぅん、と相槌を打つ。そして伯爵は聞かれてもいないのに、従者の自慢を始めた。
「ジーナは本当に賢くて器用な子でね。動植物や森に関する知識は元々私より余程あったのだけど、文字も教えたらすぐに読み書きできるようになって。最近では私が買った書籍の文章も読めるようになって…まあ、内容自体には今はあまり興味がないようなのだけれど…。あの城で私の小姓をずっとするのも勿体がないし、そのうち県都の大学に行かせたいと思っているんだ…。」
友人たちは酒を飲みながら、滔々と語る伯爵を面白く眺めていたが、そのうち女好きの青年がまた口を開いてぼそりとこぼした。
「いいねえ。私も美しい子を拾って、理想の妻に育てたいものさ。」
そう言って青年はウォッカを飲む。彼の言葉に他の友人が頷いたり笑い声をあげた時のことだった。
「そんなつもりはない!!」
穏やかで静かだった部屋の中に、伯爵の怒号が響いた。
予想しない伯爵の反応に、友人らは口を閉じ、部屋の中は静まり返る。伯爵は今まで、友人にこのような大声を上げたことはなかった。あの軟弱で柔和な伯爵が怒ったことに、友人たちは驚いていた。
「……、声をあげてすまない……だが、ジーナは…エリクや前の子たちと違って、私の愛人ではない。彼らとは違った意味で、大切な年下の友人なんだ…。」
そうして一分ほどたったあと、伯爵は我に返り友人に謝罪したが、その後も言葉をつづけた。
「私は……そんなおぞましいことは…しない…」
伯爵の声には怒りが籠っていて、彼はうつむいていた。伯爵の怒りの矛先は友人らではなかったのだが、彼らは当然、伯爵が侮辱されたと受け取り怒ったのだと考えた。隣りの青年はすぐに伯爵に謝り、釈明を試みる。
「すまない、君たちの関係を勘違いしていたよ。それに君が彼女を手籠めにしようとしていると言いたかったわけではないんだ。ほら、あの子は君を慕っているように見えたから。」
伯爵は小さく何回か呼吸をして自分を落ち着かせた。過去の記憶が渦巻く頭の中で、友人の謝罪はぼんやりとしか聞こえなかったが、最後の言葉ははっきりと伯爵の耳に残った。
「サーシャ・・・。」
伯爵の薄く碧く灰色の目が、名前を呼ばれた青年の顔を見つめる。低い声に、青年は少し背筋をこわばらせた。伯爵の地位は彼より高い。調子に乗りすぎたかもしれない、と、青年は自分の性格を反省していた。一方の伯爵は、久方ぶりに、いや、生まれて初めて、他人に呆れる、という感情を持ったような気がしていた。
「君は少し…その…。…言いにくいのだけれど……。…何事も色事に、結びつけ過ぎではないだろうか……?ジーナがこんな私を慕うわけがないだろう。」
「いや、私の見立ては外したことが…「ははは。サーシャは自分のこともそうだが、他人の色事にも目がないからなあ!」
色事に精通する社交界の華としてのプライドを刺激され、謝罪を忘れて反論しそうになった青年の言葉に覆いかぶせて、他の友人が場を和ませるために口をはさんだ。
「それにしても…君はいくつも縁談を断っていると噂で聞いたよ。」
友人はジーナに関することは伯爵の逆鱗に触れるかもしれないと気を遣い、少し話題を変えた。
「あ、ああ…。」
伯爵は友人に答える。バンドゥーラを押さえている方の手が一瞬びくりと揺れ、声もどもっていたが、伯爵が挙動不審なことは普段通りだったので、誰も気に留めなかった。
「独身の自由を楽しみたいんだろう?私もあと五年は誰も娶るつもりはないよ」
「ああ…あれこれと命令してくるのは女帝様で十分だな」
「なあに、男は三十過ぎてからだ。イヴァン、君は領民からの評判もいい珍しい貴族だ。これから女帝様や頭からの誉も高くなれば、ますます良い縁談が来るようになることだろうさ。」
「あ、ああ…その…ヤコフの言う通り、独身でないと、こうやって皆で集まるのも奥方にあれこれ言われるだろう?私はまだ自由を謳歌したくてね…。」
「そうそう、その通りだ!」
全員が未だに独り身で、伯爵とそう歳が変わらない他の友人たちは、興が乗って次々に口を開いた。伯爵は心の内を悟られないように、友人の意見に合わせて、もっともらしい、若い貴族の男らしいことを言っておく。女好きの青年も、人一倍声高に、伯爵の言葉に同意した。
恰好の話題を見つけた貴公子たちは、休憩が終わったら別の曲を演奏しようと言っていたことも忘れ、皆ウォッカをグラスになみなみと注ぎ、顔を赤くして女や結婚や家庭はああだこうだ、子供の教育はこうあるべきだなどと議論を始めた。宴会のようになってきた輪の中で、伯爵だけは一人沈黙し、口角だけは少し上げながら、語り合う友人たちを虚ろに眺めていた。
(ろくに女性と話すことも、まして触ることも出来ない、この私の、妻なんて…)
(そんな不幸、誰にも負わせたくない…)
頭上で煌めくシャンデリアや、目の前の友人たちの談笑が、伯爵には硝子越しの、遠い世界のことのように思えてきた。伯爵の頭の中で、あの甲高く艶がかった笑い声が響く。
(駄目だ、吐き気がしてくる…。早く城に帰って眠らなければ)
伯爵はバンドゥーラを持って席を立ち、酒に酔う友人たちに声をかける。
「あの、すまない……。飲みすぎてしまったみたいだ、私はここでお暇させてもらうよ」
「嘘だろ、イヴァン。まだまだ夜は長いぞ」
「よせ、伯爵様は忙しいんだ…」
「残念だな、まあ、また来月会おう。…あ、いや、待ってくれ、」
酔っぱらい達がそれぞれ好き勝手なことを言う中で、酒豪で酔いの浅い友人が、伯爵を引き留める。伯爵と同じくらい地位が高く、帝国の貴族や女帝ともつながりのある貴族だ。
彼は手を上げて伯爵を静止した後、椅子から立ち上がり、部屋の隅に居た彼の従者に声をかける。従者は肩に下げていた革の鞄から、蝋で封がされた手紙を取り出した。友人は従者から受け取った手紙を、伯爵に渡す。伯爵は封筒に書かれた名前を見て、目を丸くした。友人は伯爵の右肩に手を乗せ、微笑んで言った。
「先日所用でお会いした時に預かってね。長官殿が、君に舞踏会に来てほしいと言っていたよ。」




