短調のはじまり
メシアが馬小屋で生まれた日まで、あと十数日。
ジーナは伯爵と、また丘の上の教会に来ていた。
十日前、聖歌隊と司教は、なんと、練習を訪れた伯爵に、降誕祭の日に聖歌の指揮をすることを提案した。伯爵は、失敗が怖くて、何日も指揮をするか悩んだものの、結局聖歌隊と司教におだてられ、また音楽愛好家としての欲に負け、提案を飲んでしまった。
領主の指揮に間違いがあったとて、誰も笑い声や怒りの声をあげるはずもないか、伯爵は毎晩楽譜を読み、コソコソと指揮の練習に励んだ。そして忙しい中で、数日に一度、村の教会に赴き、聖歌隊の練習に参加した。
ジーナも伯爵に付き、教会に行っていたが、指揮も歌唱も出来ないので、毎回手持ち無沙汰に長椅子に座ったり、伯爵の後ろに控え、万一の有事に備えていた。
今日もいつもと同じように、ジーナは長椅子から、伯爵と聖歌隊を眺める。
仄かに陽光に照らされた聖堂の中で、指揮棒を振るう伯爵の銀髪の巻毛がちらちら輝く。猛々しい歌の時は、伯爵は不気味な死霊にも見えたが、やわらかな旋律の歌を指揮している時は、いつもの陰鬱さは全くなく、天上の聖歌隊を指揮する、きよらかで神々しい、天使長のようにも見えた。城に飾ってある肖像画の、うつくしく柔和で優しげな少年は昔の伯爵なのだ、ということに、ジーナは初めて納得する。
練習が終わったあと、聖歌隊の隊員たちは、優雅で繊細、と伯爵の指揮を評した。もごもごと謙遜の言葉を述べる伯爵は、天使長ではなく、いつもの伯爵だった。
ジーナが席を立ち、伯爵のもとへ向かうと、聖歌隊の「天使」も、列を外れて伯爵のそばに来た。彼は伯爵を何故か慕っており、初めの日から練習の最中や後に伯爵と親しく話をした。二人はもっぱら聖歌の出来栄えや解釈、表現について熱っぽく話していたが、時折、天使が伯爵に、世間話をすることもあった。天使、つまりハヴルィーロ自身もそれなりの貴族の次男坊で、将来聖職者になることを期待されて勉強をしており、伯爵は音楽理論に加え、哲学や科学の話が出来ることに喜んでいた。
伯爵と天使は、ジーナのそばで談笑をはじめる。音楽にも高尚な議論にも興味がなく、二人が使う難解な言葉を知らないジーナの耳には、話の内容は入ってこない。退屈したジーナは二人の様子を観察した。伯爵はどうやらハヴルィーロの美しい顔にはある程度慣れたようで、特に照れたり怖気づくこともなく、女性には見せない気さくな様子で話していた。一方のハヴルィーロは、時々伯爵の瞳をじっと見て微笑みかけたり、伯爵をおだてるだけではなく、遠回しに城に行きたいだとか、屋敷に来て欲しいというような話をしていた。そのたび、はにかんだように伯爵は笑い、はぐらかしたり話題を変えている。
(彼は本当にイヴァン様を慕っているのか)
エリクを思い出し、ジーナはハヴルィーロの伯爵に対する態度をはじめ罠かと訝しんでいたが、段々、本気で彼は伯爵に懸想をしているほうが自然な振る舞いが多いことに気づいた。伯爵とハヴルィーロが親しくなる一方、ジーナとハヴルィーロは、挨拶程度しか言葉を交わさなかったが、ハヴルィーロが女性に関心を示していないことも、態度や会話の内容からジーナは理解していた。
(それでもイヴァン様が応じないのは…貴族の子弟に利用されることを警戒されているんだろうな)
先日、ハヴルィーロは帝国や教会ともつながりが深い貴族の息子と伯爵から聞いた。美少年になびきやすい伯爵がハヴルィーロに応じないのは、政治的な理由だろう、とジーナは推測する。臆病な割に男爵に騙されたりお人好しで危なっかしい伯爵も、貴族らしく賢明な判断をするものだと思った。
(でも、イヴァン様がずっと女性嫌いなら…無理矢理妻を娶るより、彼のように純粋にイヴァン様を知る愛人をつくったほうがいいのかもしれないな)
ジーナは傍らの、楽しげな伯爵の声を聞きながら考える。執事やメイドが、唯一伯爵が恐れない女性であるジーナに何を期待しているかは理解している。だが伯爵がジーナを怖がらないのは、ジーナが女性らしくない身体つきをしている少女だったからだ。そして何より、伯爵はジーナを愛していない。色恋に興味がなく、愛していない相手との結婚が普通であることを知っているジーナだが、実の両親を見るに、愛のない結婚は不幸を生むと思っていた。ただでさえ心の弱い伯爵だ。好いてもいない相手との結婚など、それだけで倒れてしまいそうである。
(ハヴルィーロが愛人になっても、私は小姓としてお仕えできるだろうか)
伯爵に笑いかけるハヴルィーロ、微笑む伯爵。二人の様子を眺めながら、冷静な思考の隅で、ジーナの胸の中の不安が大きくなる。
(この邪魔な胸の脂肪は、どれだけ増えるのか)
ジーナは無駄なことは考えない性質だ。未来への不安も、大抵は少し考えて思考を打ち切る。しかし、近頃時おり浮かぶこの不安はいつもジーナにつきまとい、どんどん大きくなり、通常目の前や少し先のこと、そして食事や睡眠だけを考えるジーナの心のなかは、今やそれに、熊一頭ほどを占拠されていた。こんな得体のしれないもの、ジーナは今まで知らなかった。
そんな思考の最中、
「二人は歳も近いし、今度城で遊ぶかい?」
いきなり伯爵に声をかけられ、珍しく伯爵ではなくジーナの方が少しうろたえ、言葉に詰まる。しかしすぐ、ジーナは平然と答えた。
「…、はい。イヴァン様がお望みであれば」
伯爵は昔から、ジーナに同い年の友人をつくろうと躍起だ。彼女と歳が近い村人といるときも、似たようなことを言う。その伯爵の気遣いを、ジーナは好きで小姓をしているのだから、気を回さなくていいのにと、ジーナは無礼にも不快におもってしまう。
「僕も、一緒にチェスをしたい。ジーナ様は得意だとお聞きしました。」
ハヴルィーロは微笑んで答えた。ジーナのハシバミ色の瞳と、天使の碧い瞳の視線が交わる。少年も少女も、互いの真意は理解できていない。
「得意、というほどではありませんが」
謙遜の言葉を述べるジーナの視界のすみに、とぼけた様子の伯爵がいる。伯爵はいまジーナのそばで笑っているのに、ジーナの不安はおさまらず、話している会話にも関係がなく、彼女の脳裏を走る。
(イヴァン様は、女性になった私を)
(果たしてそばにおいてくれるだろうか?)
二年前からずっと、小さな声は同じことをジーナに囁き続ける。それでも喉奥でつっかえている疑問を、伯爵に聞くことはできないのだ。
聞いてない…多分