聖歌のはじまり
森にしんしんと雪が降り積もる。村も丘も城も、すべてが白い雪におおわれる。
救世主が馬小屋で産み落とされた日まで、あとひと月ばかり。伯爵と少女が出会ってから、二年がたった。前の半月の日、ジーナは十五歳から、十七歳になった。少女の背丈は多少伸びたが、胸の成長は乏しく、ジーナは未だに男装を続けている。
「ふぅ…」
かじかむ手に息をふきかけ、ジーナは使用人たちの洗濯を川辺で手伝っていた。炊事、掃除、運搬、全ての手伝い、伯爵の世話をするジーナは、城中から評判がよい小姓だったが、同時にたおれないかと心配された。
老メイドや執事などは、そろそろ小姓の真似事はやめてもいい年頃だと言う。ではメイドや料理人になれということかとジーナが二人に尋ねると、そうではない、と困った顔をされた。
ジーナは恋をしたことがない。他人の色恋にも興味はない。それでも流石に、老メイドや老執事が彼女に何を期待しているかは、推察できる。少し歳は離れているが、彼女は伯爵の周りにいる、唯一の若い女なのだ。
(しかし、イヴァン様が望むことではない。)
むしろジーナが伯爵に迫った日には、彼女は城を追い出されてしまうだろう。ジーナは城にも伯爵の側にも居たかったし、伯爵に懸想もしていないので、老人達には一抹の申し訳なさを感じながらも、今日も小姓として伯爵の側に仕えている。そんな小姓と執事達の水面下の攻防を、伯爵は無論、全くしらない。
伯爵は男爵や狼の一件から立ち直り、領地の経営に励み、社交界にも再び顔を出し始めていた。相変わらず気や身体が弱くすぐ寝込むものの、血色はよくなり、痩せこけていた頬は、少し窪んで見える程度にまで膨らんだ。青年になったあと初めて、幽霊伯爵から美男子といって差し支えない容姿に戻った伯爵は、一部の婦人からは幽霊城の貴公子などと呼ばれ始めた。
三十路目前の伯爵は、帝国貴族から見ればコザークの、僻地の領主ではあったが、地元貴族だけでなく、帝国貴族からの縁談もたまに持ち上がるほどには、不思議に評判があった。容姿や憂鬱な雰囲気に加えて、領地経営の腕を評価する声もある。しかし、伯爵は縁談はすべて断っていた。また、帝国貴族が主催する舞踏会にも、最低限しか顔を出さない。
彼が好んだ社交の場は、詩や物語を読み、笛やバイオリンを演奏する、幾人かの仲間との夜の集いや、演劇や演奏会の鑑賞だった。領地を留守にしないために、伯爵が遠くまで演奏会に行くことは少なかったが、ジーナも連れたち、領内各地の劇場には月に一度は行くようになっていた。今年の夏には、二人で帝都も訪れていた。
「ジーナ!」
ジーナが城に戻ると、入口に伯爵が佇んでいた。駆け去る馬車を見るに、来客があったのだとジーナは気づく。伯爵は浮ついた足取りでジーナのもとに駆け寄り、安い紙に木摺りのビラを彼女に見せた。
「聖歌隊?」
ジーナは掠れた文字で書かれた文言を読み上げる。
「今度、村の教会に聖歌隊の練習を見に来ないかと誘われてね。私が行くと士気が上がるとかなんとか…その期待には背いてしまいそうでとても不安だが…」
伯爵は頷いたあと、経緯を説明した。
「ジーナの年頃の子も何人かいるそうなんだ。城にいると彼らに会う機会も少ないだろう?もしかしたら友達ができるかもしれない。一緒に、次の日曜日に行かないかい?」
薄い色の硝子玉が、ジーナを見つめる。ジーナはため息を吐くのをこらえた。伯爵は、この頃特に、ジーナをやたらと同世代の人間に会わせたがる。伯爵自身、友人は少ないのに、ジーナには友人をつくれという。
(最近夜の集いで、ご友人が増えている影響だろうか?)
ジーナは伯爵や城の同僚とうまくやれていれば問題なかったし、歳は離れているが、村にはイーゴリの宝探しで気にかけてくれるようになった村人もいる。オレーナやネクラーサも友人というほどではないが交友はある。
聖歌隊の人間になど興味はないのだが、主人が言う以上、赴かざるを得ない。本心で言えば、同世代の友人を増やせといわれるたび、大人になったら城から出て行くのだから、と暗に伯爵に言われているようで、ジーナは形容しがたい気持ちが胸に渦巻くのを感じた。
「イヴァン様が行かれるのなら、お供します。」
しかし従順な雇われの小姓たるジーナは、伯爵の意には背かない。伯爵は困ったように眉を下げ、微笑んだ。近々の伯爵は、相変わらずおどおどびくびくとしているが、年相応に大人びて見えることが増えた。
(女性嫌いさえなおれば、どこぞの貴婦人とすぐ結ばれるのにのな)
主人である伯爵にも率直にものをいうジーナだが、聞けないことがふたつある。
伯爵が女性を恐れる理由、そして、大人になったジーナが伯爵のそばに仕えられるかということだ。