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変調のはじまり

蝋燭の熱だけが灯る冷えた空気に、美しく澄み渡った天使の歌声が幾重にも重なり合って響きわたる。


伯爵とジーナは、丘の上の聖堂で、若々しい聖歌隊の合唱に立ち会っていた。

彼らの歌声は神の国を想起させる美しい音色だったが、あまり神を信じず、音楽の趣味もないジーナはあくびを噛み殺して聴いていた。彼女の隣に立つ、繊細な感受性を持つ伯爵は、彼らの歌声に感動し、涙ぐんでいた。


伯爵とジーナの目線の先に居る聖歌隊の隊員は、数人の青年と、あとは十代以下の少年たちだった。伯爵や別の領主の領民が各地から集まっているため、伯爵もジーナも知らぬ顔ぶれである。

ジーナはそのうち、伯爵の視線が、中でも美しい声と容貌を持つ少年に向いていることに気がつく。


金髪の巻き毛に長い睫毛、蒼い目、陶器のように白い肌、血色のいい紅色の唇。少年は聖画〈イコン〉から出てきた天使のような外見をしていた。神の国から降り注ぐ啓示のように、その歌声も神々しく透き通っている。年頃はジーナと同じくらいか、頬はまだ少年らしさを残し丸みを帯びていた。


(伯爵様は、相変わらず美少年好きだな)


ジーナは美しい少年に目がない伯爵の姿を見て、呆れはしないながらに、感想を呟いた。ジーナ自身、少年に間違われたことがきっかけで雇われたのだが、男爵の一件以降、伯爵がジーナの前で少年趣味を見せることはあまりなかった。エリクの件で懲りたのか、新しい愛人をつくることもなかった。


(だが、私がすっかり育ってしまったら、新しい少年を小姓に雇うのだろうか)


ジーナは、歌声にうっとりと聞き入っている伯爵の横顔を横目に見る。この数年で容姿からも挙動からも不気味さが薄れ、村人や貴族から賞賛の声が上がるようになった伯爵に仕えたいと思う者は、存外多いかもしれない。小間使いでも、愛人でも。


(近頃はベッドに引きこもられる頻度も減った)


そんなことを考えながら、伯爵の横顔を盗み見ていたジーナは、青く灰色の瞳に、薄い涙の膜が張っていることに気がついた。ジーナは、はっきりとした線を描く眉をわずかに上げた。


(純粋な方だ)


何事にも心を動かされる主と反対に、ジーナは何事にも大きく心を動かされることはない。怒って眉を吊り上げることも、くよくよと寝台で悩むことも。今の伯爵のように、感動して、あるいは嬉しさや悲しさのために、涙を流すことも。

歌う聖歌隊に視線をもどし、ジーナはぼんやりと考える。音楽に触れ続けたら、歳を取ったら、ジーナも伯爵のように、美しい歌声に涙を流すのだろうか。歌や絵画に感動して涙を流す大人の自分は、想像もつかなかった。




やがて、ジーナは待ち望んでいたことに、聖歌隊の歌が終わった。


伯爵が長椅子から立ち上がって拍手をしたので、ジーナもその真似をする。伯爵はひとり、聖歌隊が立つ壇上の前に行って、感動したと伝え、隊員たちを激励した。音楽の趣味もなく平民のジーナは、下手なことをして伯爵の評判を損ねないよう、自ら長椅子の前にとどまっていた。


ジーナは遠目に、先ほど見惚れていた美しい少年と、興奮した様子で話す伯爵を見つめながら、ぼんやりと考え続けていた。


(イヴァン様が幸せで、私の仕事が城にあるなら、誰が次の小姓になっても、イヴァン様が少年を愛人にしても…)


ジーナが長椅子から彼らの様子を眺めている間、音楽好きの伯爵は、ジーナには分からない単語や表現を使って、聖歌隊員たちの歌声の素晴らしさを、興奮しながら褒め称える。天使のような少年は笑顔で謙遜の言葉を並べながらも、自分の歌声に自信がある様子で、伯爵に褒められてもうろたえることもなかった。伯爵の熱がおさまると、彼は自分が近隣の村に住むコザークの子息だと、自己紹介をした。


「ハヴルィーロと言います。伯爵様の噂を聞き、ずっと憧れていました。幽霊伯爵という失礼な異名も聞きましたが、的外れなあだ名だ!こんなに美しく精悍な方だなんて」


ジーナより少し高い背丈の少年は、伯爵の右手を握って上目遣いに見つめ、澄んだ声で真剣そうに言った。聖堂に天蓋の窓から差し込む光が反射し、青い瞳はキラキラと輝いていた。窓から差し込む逆光に照らされ、二人は神々しいシルエットをつくっていた。


「お、お世辞が上手な子だ…」


伯爵はしどろもどろに返事をし、ギョロギョロした大きな目を彷徨わせる。必死に落ち着こうとしている様子だが、きっと伯爵の心臓はバクバクと五月蠅く脈を打っていることだろう。


(イヴァン様が誰を次の愛人にしようと、私には関係がないことだ)


主の情けない姿を、二人から離れた長椅子から、無表情で見つめるジーナは、頭の中でそう考えていた。

しばらくして、ジーナは瞬きをした後、挙動不審な伯爵と言葉を交わす少年が、ふと自分の方を見た気がしたが、気のせいか、と片付けた。


(ああ、早く城に戻って課題の本を読んだり、馬の世話がしたい)


ジーナは、金色に輝く壮麗なイコンやモザイクの壁画を眺めながら、小さくあくびをした。

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