狼の帰還
城に引き篭もっていた伯爵が数週間ぶりに見た狼男は、伯爵の使用人の手によって小綺麗にされていて、村を歩く青年の一人に紛れられる風貌になっていた。ただ、元から長髪で髭を伸ばしていたようで、伯爵のような中性的な男に比べると、野生味のある出立ちをしている。傍にはネクラーサと、彼に頭を下げる、彼女の両親や、彼が助けた婦人と夫がいる。
「あなたのおかげで私も、みんな助けられた。本当に、ありがとう。」
ネクラーサはそういって、狼男に親愛の抱擁をした。狼男は少し眉を上げて驚き、娘を抱きしめるように、ネクラーサの背中に腕を回した。
「あなたは狼じゃない。人間なの」
狼男の耳元で、言い聞かせるように、ネクラーサはそう言葉を紡いだ。狼男は青い目を大きく見開いたあと、口角を上げた。
「ありがとう。・・君の言葉を御守りに、俺は家族のもとに帰ってみるよ。こんな親父を家に入れてくれるか、分からないが」
照れたように、怖気付いたように、金髪の頭をかく狼男の目をネクラーサはまっすぐ見つめて言った。
「絶対帰れる。私があなたの奥さんや娘さんに、あなたの勇姿を証言する」
「俺は、そんなに立派な人間じゃない。戦争であの男以上に人を殺したし、仲間を見捨てて逃げてきた。君たちを助けたのは、罪滅ぼしなんだ…。…でも、ありがとう。」
狼男は首を振って、地面に視線を落とした後、また少女を見返して言った。ネクラーサと抱擁を解いた狼男は、伯爵の姿を見つけると、彼のそばに歩んでいき、手前で膝を折った。
「女帝の軍から逃走した私を庇い、施しをいただき…本当にありがとうございます。何も返せるものはないが、この御恩は一生忘れません。」
帝国の訛りで、しかし恭しく首を垂れる男に、伯爵は首を振る。
「恩があるのは私の方です。あなたがいなければ、更に犠牲者を出し…もしかしたら、犯人を捕まえることもできなかったかもしれない。」
伯爵は膝が汚れるのも構わず、地面に膝をついた。狼男は、辺境の地とはいえ、高位の貴族とは思えぬ幽霊伯爵の行動にうろたえた。そして、おぼれた兵士を助けて死んだという、大帝の話を思い出す。
「あなたの勇気への感謝と、我が祖父が出した多大な犠牲を悼んでつくりました。それと、これは路銀や、娘さんの嫁資に使ってください。先日渡した手紙と一緒に、何かあったら貴方の無実の証明に、帝国や村の人に見せてください。」
伯爵は男に、狼の形をしたメダルに、青色のリボンをつけた勲章と、銀貨の入った布袋を渡した。勲章については、中世のさる騎士団の勲章を真似たものだったが、後で控えている執事以外、気づいた者はいない。
「こんな、畏れ多い……。このヨシフ、子孫までなくさず、受け継ぎます。」
狼男、ヨシフは涙を流しながら、伯爵の褒章を受け取った。中世の叙任式のような仰々しさだ、とジーナは冷静に眺めていたが、狼男が救った村人の命を考えると、案外妥当な報酬かもしれない、とも考えた。狼男は伯爵や、夫婦とも抱擁を交わした後、伯爵が手配した馬車に乗って、故郷へと帰っていった。しかし抱擁を交わしてから馬車に乗るまで、村人たちが狼男と、彼の故郷や戦況についての話で盛り上がっていたため、南の空高く昇っていたはずの太陽は、彼が帰る頃には、すっかり西のほうに沈みかけていた。
「私たちも、城に帰ろうか。」
太陽が沈み、青く染まっていく景色の中で、丘を下る村人たちの背中を見つめながら、伯爵が呟いた。
「はい」
ジーナは返事をして、伯爵の顔を見上げる。村人たちの前で領主として振る舞ったことで、やや瞳に生気が戻っているように見えた。城に帰る途中、草を踏みしめながら、伯爵とジーナは無言で歩いた。執事や使用人は、二人の後をやや離れて歩いている。歩きながら、ジーナはまた、伯爵の顔を見つめた。
(何があなたを苦しめていて、どうしてあなたは女性を恐れるのですか)
喉につかえているその言葉を、しかしジーナは伯爵に投げることはできない。
(いつかは…聞くことができるのか)
もし聞かずに済むのならば、伯爵のそばにそれで居られるのであれば、ジーナは躊躇わずに、その蓋を閉めるだろう。だが同時に、それを知らなければ、いつか伯爵と離れる日が来るという予感は、少女の背中をよじ登っていた。