伯爵の狼
伯爵は手紙と村人の証言を証拠として、ディミトリを有罪と裁いた。帝国の裁判所に送る前、ディミトリは伯爵の前で膝を折り、何度も間違いだと弁明したが、ついぞ伯爵は取り合わなかった。伯爵がディミトリを見る目は虚ろで、まるで目の前の男を人間ではなく、獣か化け物として見ているようだと、傍らにいたジーナは思った。
狼男は、故郷へ帰ることになった。ディミトリを裁いた後、伯爵は脱走兵をどうするのか、と聞いてきた執事とジーナに向かって、脱走兵などいない、ここに居るのは病をおして戦い、さらには我々の村まで救った勇敢な兵士だと、のたまった。呆気に取られる執事に、伯爵は、狼男は戦場で病にかかり、進軍する仲間に残されていったところ、敵をなぎ倒しながらも合流を試みたが、船に乗れず…。とどまっても働き口もないので、村に帰ろうとする道すがら、言葉も分からずに旅をしたので、ここに迷い込んだのだと、伯爵は練り上げた物語を語った。自分自身軍人であった執事はかなり難しい顔をしていたが、戦もすでに終わっているし、行方が知れぬまま病や怪我で命を落とした者も、逃げ出した者も大勢いるので、一人一人突き詰めることはしないだろう、と、ため息をついた後、主の嘘を受け入れた。伯爵は、狼男が故郷で脱走の罪に問われることがないように、彼が意識もうろうで村に迷い込みながらも村人を救った旨を丁寧な手紙にしたため、狼男に渡しておいた。
ジーナたちが何より驚いたことに、女性恐怖症な伯爵はそのあと、ある年齢以上の、狼狩りの時代を生きた女性に対して、自ら足を運んで聞き取りをしたようだ。とはいえ、男性の伯爵に、そのような過去を話したくない村人も多いため、ネクラーサにも協力してもらったらしい。そして人殺しはしていないものの、罪を犯した「狼」を調べ上げ、一人一人の家に出向いて、ジーナがあずかり知らぬ何かを伝え、兵士に彼らを見張るように告げた。
太陽と月がのぼって沈む間ずっと、森には数人、見回りの兵士や村人が巡回するようになった。広大な森の全てを見回るのは限界があり、村人が森に入ったとしても、必ず彼らに会うわけではない。それでも、領主に見張られているようで居心地が悪いという村人も居る。ジーナにとっても、森が自由な場所でなくなることは何処か惜しく感じたが、あの気弱な伯爵が執事や兵士に何を言われても頑なに譲らなかったので、面と向かって反対はしなかった。
ただしジーナは、一人で森へ行くなという主人のお願いは破り、腰には小銃と短剣をぶら下げて、今日もぶらぶらと木々の中を彷徨っている。
冬の気配が濃くなってきた森を抜けて、灰色の空の下、寒々しい風が吹くなか、丘を登って、ジーナは城に帰った。暖炉の前で少し暖まったあと、地下の厨房から温かい酒を貰ってグラスに注ぎ、伯爵の部屋へと持っていく。
伯爵は一通りのことを終えたあと、寝室に閉じこもってしまった。重要な書類に判を押したり、目を通したりはしているが、もう1か月近く、ずっと寝台の上で寝ている。ジーナは蜂蜜酒を運ぶことを口実に寝室を訪れるたび、うなされる伯爵を見た。
ジーナはギィギィと軋む木の階段を登りきって、緋色のベルベットの絨毯が敷かれた長い廊下を突き当りまで進み、伯爵の寝室の前に辿り着く。ギィ…と音を立てて扉を開くと、今日も伯爵は、寝台の上で掛け布団にくるまっていた。
伯爵は悪夢に魘されているようで、うわごとに誰かの名前を呼んでいるようにも聞こえたが、耳を立てるのも無礼なので、ジーナはあまり聞かないようにした。
(父親か母親の名前だろうか)
グラスをサイドテーブルに置いた後、伯爵の額の汗を布で拭うジーナの目は、今まで気にしたことがなかった、壁に飾られた油彩画の上に留まる。それは家族の肖像画で、長い薄金の巻き毛の少年、まだ生気があった頃の、ちらちら輝く硝子玉のような目をした伯爵を中央に、左右には彼に似た顔の儚げな女性と、今の伯爵に少し似ている、柔弱な表情を浮かべた男性が並んでいる。伯爵の母は彼を産む時に亡くなったので、それは、画家が残された家族のために描いた、実際には在り得なかった光景だった。父親は優しい人だった、と伯爵がジーナにこぼしたこともあるが、その父も伯爵が十一の時に亡くなったと聞く。
(この肖像画が描かれたすぐ後だろうか)
ジーナは伯爵の苦し気な顔を見る。父親が亡くなったあと、ジーナと出会った時まで、伯爵が何を経験したのか、ジーナは知らない。誰も語らないので、聞いてはいけない気がしていた。たしか、先代伯爵の再婚相手が代理人として統治をしていてすこぶる評判が悪かったと聞いたことはあるが、村人たちの話にもあまりのぼらない。相当意地の悪い継母だったのだろうか。
(だからこの人は、女が嫌で怖いのだろうか)
ジーナは今まで考えたことのなかったことに、初めて思いを馳せた。しかし、その疑問を直接伯爵にぶつけ、伯爵に答えを言わせたら、硝子細工のような伯爵は、粉々に砕けてしまう気がした。
「…ジーナ?」
伯爵が長い睫毛に縁取られた目を開け、ジーナの方を見る。薄く碧い瞳と、ジーナの鳶色の瞳の視線が交わる。ジーナは思考を打ち切り、伯爵を寝室から引きずり出すために、ひとつ提案をした。
「明日、狼男が故郷に戻るそうです。見送りにいかれませんか。」
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