狼狩り
「1750年、52年…」
伯爵は一人、地下の書庫でぶつぶつと呟く。羊皮紙を蝋燭の明かりで照らし、滲んだ文字にぎょろりとした目を凝らす。膨大な数の巻物や本、紙の束が彼を囲んでいた。鼠が石床を彷徨っているが、伯爵の目には入らない。伯爵の父が一瞬の治世の間に行った唯一の仕事は、この書庫をつくることだ。祖父は粗雑だったが、書記は生真面目だった。祖父が残した記録、祖母の家にまつわる記録を手当り次第父は地下に放り込んだ。あとから整理する気だったのだが、生憎病に倒れ、手つかずの文書の山が残った。伯爵は義母が去ってから書庫を見つけたが、あまりの量に整理を先延ばしにしてきた。貴族である証明を帝国の知事に求められた時は、執事と使用人が血眼で家系図や憲章を探し出してくれたが、伯爵は村人から出されたという嘆願書の数に衝撃を受け、伏せっていた。
伯爵が集める科学や啓蒙の書は2階の書庫にあるので、伯爵が地下の書庫を訪れることはほとんどなかった。蜘蛛の巣が張った不気味な空間を思い出すと足を踏み入れるのは躊躇われたが、どうしても調べたい記録があったので、伯爵は恐る恐る重い鉄の扉を開け、本の山に向き合ったのだった。
文字の読める使用人にも手伝ってもらい、片端からあまり古びていないものを選び本を整理していったが、目的の記録を探すのに数日かかった。祖父の時代に行われた裁判記録と、祖父の書記の日誌。裁判記録には目ぼしいものはなかった。書記の記録はまめで、領内の出来事が記されていたが、一日一日の記録を残しているので、量が膨大だった。色々と興味をそそる記事もあり、不作の年を洗い出せば原因が分かるのではないか、など脇道にそれつつ、伯爵は目当ての記述、狼さわぎの記録を見つけた。執事の手も借りて調べたところ、狼による家畜や人の被害の記録は数年に一回あった。しかし、三十年前にやたらに被害が多発した年がある。正確に言えば狼の被害ではなく、狼によるとされた被害の数だ。そして、しばしば村人の逃亡のためか行方不明者の記述があったが、その時期には特に数が増えていた。行方不明は狼の仕業とされ…実際、狼が人を食べた記録もかなり昔の記録にあった。
祖父は大規模な狼狩りをカザック達と行い、森の狼は根絶やしにされてしまう。
記録では、その後行方不明はなくなった、とある。執事や使用人の話を聞くと、事実としては、異様な行方不明、死体の発見は収まったが、行方不明者は相変わらず数年に一人はいたという。そして、二十年ほど前に、狼か犬の咬み傷がある死体も見つかっていた。
伯爵は蝋燭の明かりで照らされた紙片に描かれた絵を見つめる。森で見つかった被害者の様子が描かれていた。
「酷い…」
狼に食われたような跡は、先日見つかった死体と一致する。
「寝室に戻られないのですか」
伯爵が顔をあげると、仄かに光る蜂蜜色の瞳と目が合う。伯爵は灰色の瞳を瞬かせて尋ねた。
「もうそんな時間かい?」
「23時を過ぎています。もう2日はここで眠られているでしょう」
伯爵の隈はいつにもまして濃くなっていた。気を抜いた途端眠気を感じた伯爵は欠伸をし、本を閉じて、積み重ねて机の端に寄せた。
「目当ての史料は見つかったし、今日は部屋で寝るよ…結局誰の仕業かはわからなかったけれど…」
「狼ではないのですか」
ジーナも薄々思っていたことだが、伯爵は人間の仕業だと断言した。
「本物の狼を見ても、二本足で立つ狼男だとは思わないだろう?」
伯爵は迷信と思いながらも幽霊や悪魔を恐れる臆病者だが、奇妙に冷静なところもあった。
村人の中で犯人探しをすることに伯爵の気が滅入っていた時、城に一人の少女が尋ねてきた。黒髪の、年の頃はジーナより少し上、細やかな刺繍の入ったスカートを履いた彼女は、門の前に現れた伯爵に、よく通る声で嘆願した。
「私に囮をさせてください」




