狼の言葉
「私は君を助けたつもりだったんだけど」
男はにこにこと、穏やかな口調で話す。伯爵はディミトリに視線を向けた。上等な絹の上着を身に着けた紳士は、粗野な狼男とは結びつかない。確か、ディミトリには娘、息子と、数年前に死別した妻が居たはずだ。女好きという噂も聞いたことがない。豊作な年は気前よく小麦や野菜を分けてくれるという、評判の地主だ。
「私も彼に…狼男に追われて貴方を見た時、そう思った。実際、私が気を失ってる間に貴方は彼を捕らえたみたいね。」
「ああ…恐ろしい狼だ。何人も女性を食べたのだろう」
ディミトリは軽蔑の眼差しで、狼男を横目に見る。狼はディミトリを眼光鋭く睨みつけているが、紳士は全く怯まない。
「恐ろしいのは…平然と罪を他人になすりつける、お前だ!!」
ネクラーサは左手を支えに起き上がり、立ち上がった。右手には伯爵が渡した小銃が握られており、その狙いは紳士に定められていた。
「!」
咄嗟に伯爵は、傍にいたジーナを庇って身を伏せた。暗い森に銃声と、獣の声が響く。
伯爵が目を開けると、尻餅をついた紳士と、いつの間にか拘束を振り解いた狼男がネクラーサを推し倒している。どうやら銃弾は誰にも当たらなかったようで、村人もどよめきながら互いの安全を確認していた。ネクラーサは狼男に腕を抑えられながら暴れ、怒声を上げている。
「忘れるわけないだろ!その声、よくも……よくもカーチャを!!!」
少女は獣のように鋭く殺意の籠もった目を向け、男に叫んだ。対する男は平然とした様子で、人差し指を口に当て、首を傾げる。
「声?私と似た声の男なんていくらでもいるだろう…その狂人も話せたのかもしれない。待ってて、今助けてあげよう」
今度はディミトリが懐から小銃を出し、狼男に向けた。
「やめろ!ネクラーサに当たる!」
伯爵が静止し、兵士や村人が脇からディミトリを抑える。
「背中を見せろ!あの時…!、屈辱の中で、お前の背中に深く深く爪痕で傷をつけた…、まだ跡くらいあるはず」
「背中の傷くらい、誰にでもある」
いくらネクラーサが獰猛な狼のような表情で叫んでも、男は飄々としていた。伯爵とジーナはディミトリに疑いの目を向けていたが、村人たちはまさか、と囁やきあっている。
「いいから上着を、…っ、あなたもっ、どうして邪魔するの!!私を助けてくれたんでしょう!どいて、あの狼を殺させて!!!」
怒りと悲痛な叫び声を上げるネクラーサの腕を、狼男は掴み、引き金を引かせない。
「ネクラーサ!」
村人たちが少女を案じ、男に長銃の銃口を向ける。
「打つな!彼女に当たるし、今、助けたと」
ジーナは手を上げて彼らを牽制しながら、一人で少女と狼男に近づく。二人は揉み合ったままで、ネクラーサは暴れ続けているようだ。
「離せ!離せ!あの狼が、カーチャを…!!!私の、親友を……っ!」
少女の半分掠れた、震える声には、怒り、悲しみ、屈辱が入り混じっていた。しかしどんなに彼女が叫んでも、狼男が、銃を握る腕を拘束する力は緩まない。ジーナが間合いを測っている時、少女の叫び声が止まった。
「ネクラーサ」
落ち着いたが、とジーナは少女の名を呼ぶ。返事はない。狼男の挙動を見ながらジーナがさらに近づこうと地面を踏みしめた時、
「止めるなら、貴方も」
抵抗をやめたように見えた少女は、左手をひねって一瞬拘束を抜け出した隙に、背中からナイフを取り出した。狼男の胸元には、ナイフが突きつけられている。狼の目が彼女を見下ろす。ネクラーサのナイフを握る手は震えていたが、切っ先が下ろされることはない。彼女の目は本気だった。狼男は、彼女の顔に視線を向け、乾いた唇を開いた。
「君まで狼になるな」
ネクラーサは目を見開いた。ひどく訛っているが、狼男は確かに人の言葉を話した。先程まで狂気じみた鋭い眼光を放っていた青い目は、優しげに少女を見つめている。
「ひとを殺したら、獣になる。ひとには戻れない。あの男は、紳士の皮を被っただけの獣だ。俺もそうだ。ひとを殺して、殺されかけて、逃げて、そのうち狼になってしまった。」
狼男、いや、ただの人間の、腰より長く伸びた茶髪を持つ、髭も伸び放題の、汚い身なりの男は、聞き慣れない訛りで、滔々と少女に語りかけた。ネクラーサは呆然と、彼の言葉を聞いている。伯爵たちも皆、狼男が突然正気に戻り、人間の言葉を話しているのを聞いて唖然とし、ジーナもそれ以上二人に近づかず、事態を見ていた。
唇を閉じた後、男は優しく、少女に微笑む。どこかぶっきらぼうだが、慈しむような、父親のような表情だった。ネクラーサは彼の背中の向こうに、憎い復讐相手ではなく、両親や、カーチャの家族、友人たちの姿も見つけた。男は微笑んだまま、言葉を続ける。
「君は獣になるな。ひととして、復讐を果たせ。」
そう言うと、男はネクラーサの右手首を離した。ネクラーサは力の抜けた右腕を下ろし、銃口も、左手に握るナイフの切っ先も地面へそらす。彼女の顔も俯いて、虚ろな瞳からは、途端、涙が溢れた。
(狼になる?なってやろうじゃないの!)
毛むくじゃらの、異国人の言葉など無視して、今、右手に握る銃の引き金を引いて、沈黙を勧めた両親の前で、親友の家族の前で、私たちの友人の前であの男の頭を撃ち抜いてやればいいのだ。惨めに、惨たらしく、その死体を狼や野犬に食わせてやればいいのだ。そう思っているのに、銃を持つ腕を、上げることができない。ネクラーサの脳裏にはカーチャの笑顔が浮かんで来て、彼女に天国で会えないような生きものになることを躊躇わせた。
「それじゃ、わたしの怒りは…カーチャの無念は…どう果たせばいいの…!……カーチャ、カーチャ……………」
ネクラーサは地面に座り込み、銃とナイフから手を離し、両手で顔を覆った。涙はとめどなく彼女の瞳から溢れ続ける。
「すまない…俺には、答えられない。俺はただ、娘と同じ年頃の君を、あんな男のために、俺のような狼にさせたくないんだ………」
嗚咽を上げるネクラーサの背中を擦ってそう言うと、毛むくじゃらの男は立ち上がり、伯爵の方に向かって、跪いた。戸惑う伯爵は、男の履いている薄汚れた長靴が、軍靴であることに気がついた。男は顔を上げ、伯爵に報告を始めた。
「この地の領主様とお見受けしました。とんだ痴態を、お許しください。私はアンドレイ、女王陛下の兵士。彼女の証言で足りぬなら、どうか私の証言もお聞きください。私はその男が彼女を襲うのを二度見ました。一度目はひとつ前の三日月の夜、二度目は今夜。また、別の女性を襲うのも。」