女嫌いの伯爵
義母たちから解放され、十七歳になったイヴァンは、ようやく一人前の当主としての地位を得た。
ちょうどクーデターを起こし、皇帝の妻から皇帝になった女帝から、
祖父の大帝への貢献を評価され、帝国の爵位も貰った。
だが、義母が裁かれても、領地経営や城の采配の実権を握っても、
彼女たちの仕打ちが残した傷跡は消えなかった。
最も彼の貴族生活に陰を落とした傷は、女性恐怖症である。
伯爵がまだエリクよりもジーナよりも幼かった頃には、淡い初恋を抱いていた女の子もいた。けれど、義母の呪縛から逃れ、名実ともに伯爵として赴いた舞踏会で、麗しい女性になった彼女に手を握られただけで、伯爵は眩暈を覚え、吐き気を催した。憧れていた彼女を、今もきっと、きれいな心を持つ貴婦人に違いない彼女を、記憶の中の忌まわしい義母と義姉の姿に重ねてしまった伯爵は、それからずっと、女性を避けるようになった。
女性恐怖症で、元から社交的でない伯爵は、大人の男性とも上手く接することが出来なかった。これは伯爵の生来の性格によるところもあったが、男性の中には母や姉と同じ視線を伯爵に向けてくる者も居たので、伯爵は社交界に行くのが、ますます恐ろしくなった。
舞踏会に行き、女性と浮名を流す代わりに伯爵は、花のように美しく清らかな少年たちを傍にはべらせ、慈しんだ。彼らに綺麗な服を着せ、演奏会へ行き、共に新緑の木々がつくる、木漏れ日の中を歩いた。
それは伯爵にとって暖かく、愛おしい時間だった。
ひょっとしたら、伯爵自身がしたかった少年時代の経験を彼らに与えようとしたのかもしれない。ただ、美しいものを見て、悩みを忘れたかっただけなのかもしれない。伯爵も、自分の真意はよくわかっていなかった。彼にとって確かなことは、彼は少年たちを愛していたことだ。
しかし、彼らが求めていたのは、伯爵と同じ愛ではなかった。
女性とは話をすることもままならない伯爵だが、愛しい少年たちが相手であっても、その素肌に触れることはできなかった。忌まわしい幼き日の記憶が、どうしても彼にそれをためらわせたのだ。
そして皆最後には、失望して伯爵の元を去った。
もし愛しのエリクが伯爵と共に傷を癒すための歳月を過ごせば、伯爵もいずれは彼になにかを与えることができたかもしれないが、
エリクが欲しかったのは、長い時をかけて育つ穏やかな愛ではなく、花火のように一瞬一瞬輝く燃えるような恋だった。
「うう…」
伯爵は唸り声を上げて寝返りを打つ。彼は夢の中で、姉や母やエリクたちの嘲笑から逃げようと真っ白な雪景色の中を走り続けていた。背中に浴びせられる笑い声はやがて遠のき、伯爵は雪原の上で息を整える。雪の冷たさに顔を上げると、知り合ってそう長くない、少年の格好をした少女がたたずんでいた。
(ジーナ…)
伯爵は夢の中で、少女の名前を呼ぶ。
ジーナは伯爵にとって、不思議な存在だった。中性的な顔立ちのせいか、淡白な性格のせいか、彼女が少年の格好をしている限り、伯爵はジーナを恐れ、不快に思うことはなかった。
しかしジーナは伯爵の中で、懸想の相手や愛人というよりも、友人に近い位置にいた。
今までの小姓と違い、ジーナは伯爵に何らの熱が籠った瞳も向けない。
それでも、だからこそ、彼女と過ごす時間は、これまで誰と過ごしたよりも優しい時間だと感じていた。
もっとも、その大半は寝込む伯爵の世話をジーナがしているだけであったが。
少女の姿を見た伯爵が安堵のため息をついたのも束の間、瞬きをする間に伯爵の視界は真っ赤に染まった。血まみれのジーナが、伯爵に縋る。
彼女の虚ろな鳶色の瞳と伯爵の目が合い、その頬に手を当てた伯爵は、肌の冷たさから悟った…
「っ!!!」
伯爵は思わず飛び起きた。彼の心臓はいつになくバクバクと早く脈打ち、身体中から汗が吹き出ている。不安で胸の中央が苦しくてたまらない。
「はあ、はあ…」
伯爵は呼吸を落ち着かせ、ぎょろぎょろと瞳を回し、時計を見る。まだ夜明け前だ。窓の外は真っ暗で、星も見えない。
眠るのが怖くなった伯爵は身を起こすと、寝台近くの机の上に、蜂蜜入りのウォッカが入ったグラスが置かれているのに気づいた。ジーナが用意したものだ。ジーナは孤児だと言っていたが、本当に気の利く子だ、と伯爵は感心し、また同時に、自分より一回り以上年下であろう彼女に気を遣わせていることに後ろめたさを感じた。そして、自分を見捨てずに忠告してくれた彼女への仕打ちを思い出し、後悔した。
それでも、伯爵は男爵への疑念を頭の中から消そうと、ウォッカを飲んで再び眠りに落ちた。
まだまだ寒い夜から少女を守る、暖炉の炎が爆ぜる。燃える薪を見つめながら、ジーナは男爵の噂について考えていた。城や舞踏会での会話から、ジーナは男爵を疑っていたが、同時に、伯爵の百倍は貴族の生活と社交界を楽しんでいる男が、危険を冒して身内を何人も殺す動機は、農民のジーナには思いつかなかった。
(地位と財産と美貌を持つ男爵が殺人鬼であるなど、伯爵様の言う通り、私の杞憂だろうか。)
ジーナは揺れる炎を見ながら、考える。
しかし、特段大きな理由がなくても、些細な事から仲睦まじい家族や友人が争い合う光景も見てきたジーナは、やはり伯爵のようには男爵を信用できなかった。
(ならば、自分がなすべきことは何だ。このまま悪魔が住む館から離れ、門を開けなければ堅牢な城に閉じ籠っていて、伯爵の心を、この生活を守れるのか。)
ジーナは伯爵から貰った懐中時計をいじりながら考えを廻らせる。湖の国の職人がつくったという銀製の時計は、高価であることが一目でわかる精巧なつくりで、一介の農民のジーナが手にするにはそぐわないものだ。
元々ジーナは伯爵の領民であり、彼の土地に縛られ、その土地を耕す存在だった。しかし城からほぼ出ることもない伯爵はジーナにとって遠い存在で、領主の存在の大きさを、幼い頃のジーナは知らなかった。
今、彼女はその伯爵に、農民ではなく小姓として仕えている。手を真っ赤に、あかぎれだらけにして冬の森を歩いて薪や食糧を集めることもせず、凍えることもなくこの暖かい部屋で、柔らかい寝台の上で眠ることができるのも伯爵に与えられた恩恵であることを、ジーナは身をもって感じていた。
(恩恵は、奉仕と引き換えなのだ。)
いつも涼しげな少女の鳶色の目に、炎が映っていた。