狼の記憶
少女が震える声で話し終わった時、ジーナは白粉がのった伯爵の顔がいつにもまして蒼白く、骨ばった手が震えているのに気がついた。伯爵の表情には怒りや同情も混ざっていたが、その目は何より恐怖の色に染まっていた。
ネクラーサは涙をこらえて俯いており、伯爵の姿は目に入っていない様子だ。伯爵は傷ついた領民に声をかけようと口を開くが、脳裏には忌まわしき思い出が浮かび、呼吸は早まり、紫色の唇は言葉を紡げていない。
(イヴァン様の様子がどうもおかしい。お一人にさせて、落ち着かせなければ。ネクラーサも辛そうだが…彼女の方は、一人で立っていて、脚も震えていない。)
ジーナはとりあえず、伯爵の動揺を見せないため、一人にさせるためにネクラーサを別の部屋に案内することにした。
「…、ご気分が落ち着くまで、別室で休まれたほうがいいでしょう。私がご案内します」
「ごめんなさい…情けないわ。けど、仇が討てるなら、狼に喰われるのも怖くないの。伯爵様…どうか私を囮につかってください」
ネクラーサは振り返って伯爵に懇願してから、ジーナに背中を押され、手を引かれて廊下に出ていった。ジーナは暖炉とソファのある部屋に彼女を連れて行く。ジーナは暖かいウズヴァールを厨房から持ってきて、また詳細な事情は伏せたまま、老メイドに彼女の傍に居るように頼んで、伯爵が居る部屋に戻った。
「イヴァン様…大丈夫ですか」
「ああ…すまない…」
ジーナは、椅子に座り、俯いたままの伯爵にもウズヴァールが入ったグラスを差し出す。少し落ち着いてきた伯爵は、ジーナが目を丸くするほど勢いよく、ウォッカをあおるようにグラスを傾け、ごくごくと喉を鳴らし飲み干した。果実と蜂蜜の甘い味が、伯爵の意識を現在に呼び戻す。伯爵は鼓動が落ち着くのを待って、深呼吸したあと、顔を上げて、目の前に佇むジーナを見た。
澄み切った鳶色の目に浮かぶ感情は伯爵には読み取れないが、忠実な従者は主の動揺の理由は尋ねず、ただ黙って彼を見つめている。その気遣いか、無関心を有り難く思いながら、伯爵は腰を上げた。
「……ごめん、情けないところを見せてしまったね…。おかげですっかり落ち着いたよ、彼女に会いに行こう」
微笑む伯爵の声は、少し震えていた。伯爵はジーナの反応を待たず扉を開けて廊下に出ていったので、ジーナも無言で主のか細い背中を追い、部屋を出た。