予想と意外
「貴方小さいのに勇敢ね!名は何というの!?」
「よく見たら顔もとっても綺麗じゃない…!」
薄着で水に濡れていると言うのに、顔に見入ってジーナを少年と思い込む女性たちが彼女を取り囲んでいるのを、伯爵は近寄れずに眺めていた。掠れた息とともに上下する彼の肩を、先程の腕っぷしの強い婦人が叩いて言う。
「あなた、貴族様なのに使用人を見捨てないなんて、ご立派だね」
「…当然のこと、ですよ…。むしろ、私が泳げなかったのが、情けなくて…」
この腕なら簡単に自分を絞め殺せる、とがっしりした腕を見つめながら、伯爵は薄蒼い目を伏せて答える。
(私は飛び込もうか迷い、何とも都合よく川岸にあったロープを拝借して掴んでいただけだ。ジーナが居なければ助けられなかったし、この婦人方が来なければジーナも死なせていたかもしれない。)
ロープを掴んで待っていろとジーナに言われ、自分の体力を知り、彼女の身体能力の高さを知っている伯爵は、彼女を案じながらも頷くことしかできなかった。
「貴方が叫ばなきゃ皆来なかったし、あの子一人だけじゃきつかったろ」
「いやはや、聞いたことのない声でしたな」
「あの時は悪魔かと思ったけど、まさかこんな立派な身なりの方だなんて。あの子を助けるために不気味な声を出したんですね」
地声とは言えず、伯爵は視線をさまよわせていた。
「あの人がご主人さま?よく見るとやつれてるけど綺麗な顔ね」
ジーナに集まっていた女性たちの視線が自分に向けられ、伯爵がいかに立ち去ろうかと考え始めた時、ずぶ濡れの恋人たちが路地裏へ立ち去るのを視界の端に見かけた。
伯爵はジーナと目を合わせ、親切な町人たちを置いて二人を追う。白い壁の家の裏で、二人は真剣な表情で話し込んでいた。伯爵たちは無言で成り行きを見守る。
「貴方だけじゃなくて…、私も迷っていたの、わたしたちの未来について。」
オレーナは、恋人の翠の目を真っ直ぐ見つめ、告白した。ヴィクトルは覚悟するように口を一文字に結び、恋人の声に耳を傾ける。
「私、貴方ともし結婚できたとしても、貴族の奥様になんてなれっこないと思ったの。社交界で渡り合ったり、使用人を使ってあれこれするよりも、宿屋でお客さんと話したり、ベッドをふかふかに整えたり、食堂で忙しなく料理を出したり、注文を取ったりする方が好きなんですもの。」
「オレーナ…」
青年は、静かに恋人の名前を呼んだ。死を前に二人の間で焚き火のように高々と燃えていた焔は、ゆらめく蝋燭の火のように静かになっていた。今、ヴィクトルの頭は、氷水を被ったように冷えていた。
「でも、貴方が好きなのよ…!気弱で、気障で、けれど優しくて、素直な貴方が」
それでも、二人の愛は消えていない。オレーナのオレンジの巻毛や睫毛、白い肌についた水滴が太陽の光に煌めき、青い瞳もきらきらと湖面のように輝いている。ヴィクトルは水に濡れ、汚れたドレスを着てなお美しく、彼女をこんな目に合わせた自分を好きだというオレーナを、心から愛おしいと思った。
「僕も、強くて優しくて、一生懸命な君が好きだ」
ヴィクトルは胸元に縋り付くオレーナを抱き締め返す。
(地上で、太陽の下で、また暖かい彼女に触れられて良かった。生きてこそ、僕達は愛し合えるんだ)
越えられない硝子の壁に隔てられながら、ひしと抱き合う恋人たちを見つめる伯爵は叶わぬ恋に共感し、目を潤ませていた。
ジーナはといえば、怪訝な顔で二人を眺めていた。
「オレーナ…」
ヴィクトルが、恋人の名を囁く。彼女は別れの言葉を覚悟し、顔を上げた。
(さっきはもう死ぬと思っていたけれど、これから私達は生きなければならないもの…)
命を捨てない代わりに、愛を捨てることになるのか。貴族の妻にはなれない、しかしヴィクトルの妻にはなりたい、彼に別れを告げられたら、何と言おう…と、考えを巡らせていたオレーナは、恋人の翠の瞳に、思わぬ輝きを見つけた。
ヴィクトルは、オレーナと初めてあった日、無自覚に彼女を虜にした、少年のように素朴で愛くるしい笑顔で言った。
「僕も、君の宿屋の手伝いをしてもいいかい?」




