悲劇と喜劇
リアリティ…知らんな…
イメージは大きなカブ
オレーナ、オレーナ。
流れる水の中で、ヴィクトルは恋人を捕まえ、呼びかける。
流れはさほど速くないが、川幅が広く、岸が遠い。
「ヴィクトル、」
オレーナが応える。
青空を映す青い瞳がヴィクトルを見つめる。この一ヶ月焦がれた彼女を、ようやく抱きしめることができた。ヴィクトルが腕に力を込めると、オレーナは泣きそうな声で呟いた。
「足が、」
「大丈夫、オレーナ、落ち着いて、」
泳げないオレーナが流されないように腰を掴みながら、ヴィクトルは岸に向かって泳ぐ。人の重さを抱えて泳ぐと、岸は万里の遠くにあるように見えた。
「ごめんなさい、わたし、あなたを信じられなかった」
オレーナの懺悔に、ヴィクトルは泳ぎながら、何とか一言答える。
「僕も…ごめん」
オレーナが、いつものように、太陽のように笑う。ヴィクトルもつられて微笑む。
この期に及んで決心がついていなかった。
だが、オレーナが水の中に消えそうになった瞬間、幸福な日々と、これから訪れようかという未来の幸せな記憶が頭の中を駆けめぐった。太陽のような彼女の笑顔、きっと彼女に似る子供たちーーー
(やっぱり、僕は彼女と結婚したい。例え、水の底でも。)
青年は、重くなっていく腕や足を感じ、ふと前へ進むのを止め、恋人に向かい、沈んでしまう前に伝えたい言葉を言った。
「オレーナ、……、僕の妻になって…」
「ええ…、貴方以外、私の夫になれる人はいないわ」
二人は流れる川の中で抱き合い、口づけをかわした。ヴィクトルはこの川はやがて本流に合流し、滝のように速く流れることを知っている。重い服のせいで、このままではふたりとも沈むことも、岸がどんどん遠ざかっていくことも。
彼らにとってもう、そんなことは気にならなかった。
(これで最期でも、二人共にいるなら…)
「捕まれ!!」
聞き覚えのある声に、二人の世界に入っていた恋人たちは目を覚ました。シャツだけ着た身軽なジーナが、ヴィクトルのシャツの襟を掴み、もう片手には綱を掴んでいる。伯爵が綱を掴み岸辺にいるが、かなり手が震えている。
「ジーナ!?」
「なぜ僕達を…君まで溺れる!離すんだ!」
思いもしない救世主に、ヴィクトルは叫んだ。
「泳げ!ヴィクトル!」
「もう、腕が…、…、」
動けない3人を見て、伯爵は最悪の想像に負けそうになりながら、笑う膝を震わせつつ、踏ん張り、血の滲む手を離すまいとしていた。
「火事だ〜…!!!!」
伯爵は自分の情けなさに不甲斐なさを覚えつつ、助けを求めるため、人生で一度も出したことのない、喉が潰れんばかりの大声で、お誂えの嘘を叫ぶ。世にも不気味な断末魔が響いた。
伯爵の言葉は聞き取れなかったが、不気味な悲鳴に悪魔が殺されでもしたかと野次馬に家を出てきた近所の市民が、大変だと人を呼び、通りからも人が来た。
「三男坊が溺れてるぞ!」
「心中か?」
「まだ生きてる!婦人と子供もいる、助けないと!」
「貴方そんな細腕じゃ折れるでしょう」
死にそうな顔で綱を握りしめる伯爵の側に来た頑強な婦人が、綱を掴んだ。
「あ、ありがたい…」
伯爵は珍しく女性に恐怖ではなく、頼もしさを感じた。
「こんな面白いことに出会えるなんて!劇みたい!」
恐れ知らずの若者たちは服を脱ぎ、踊るように川に飛び込んでゆく。そして綱を切れないように掴んだり、何人かでオレーナを先に救出した。
「ヴィクトルさんも早く捕まって!」
手を差し伸べてきた青年たちを呆気にとられた顔で見つめながら、ヴィクトルはその肩を借りつつ、足を動かし、水をかき、岸へ向かって泳いだ。
(この数ヶ月僕は自分の人生を悲劇だと思っていたが、それは思い違いだったのかもしれない。)
岸に上がり、飲み込んでしまった水を吐き出すヴィクトルは、同じく咳き込んでいる恋人と目を合わせ、泣きながら笑った。
(本当は、喜劇だったんだ)




