博愛と偏愛
「ジーナ…、ど、どうしたんだい…?」
村に戻る道の途中、ずっと無言でいるジーナに、馬上から伯爵は声をかける。ジーナの眉間には、珍しくずっとしわが寄っていた。
ジーナは伯爵の言葉に、自分の心を考える。伯爵がおどおどと尋ねるのももっともなほど、今の自分は機嫌が悪い、なぜだろう。
ジーナは暫く考え込んだ。揺れる老馬の上で苦労して体勢を整えながら、伯爵は少女の答えを待った。ジーナは、前方を歩く、馬に相乗りしている恋人たちの背中を見ながら、口を開いた。
「イヴァン様が…彼の両親や…私には法典のことは分かりませんが、法官に責められる危険を負ってまで、彼らの「愛」を守る必要があるのかと思ったのです。きっと別れても、もうあの二人は心中することもないでしょう。断られたあと、イヴァン様の迷惑にならないぐらいの分別はあるでしょう。」
伯爵は、ジーナの返事に、ぱちぱち目を瞬かせたあと、困ったような顔で言った。
「必要はないかもしれないけど…。私は彼らの愛を認めた方が、自分や村のためになると思ったから、頷いたんだ。それに、さして危険はないと思ってる…今の女帝も、将軍と秘密結婚したという噂もあるくらいだからね」
「どうして他人の、曖昧な、いつまであるかも分からない愛のために、危険を侵すのですか。」
間髪入れず帰ってきた、どこか、胡椒一粒ほど怒気を孕んだジーナの声に、伯爵は口をぱくつかせた。金色に染まる夕暮れの草原の道を、二人の馬が並んで歩く。ジーナは感情が見えなくなった目で、前を歩く馬上の恋人たちを見つめ続けていた。
「ジーナも、さっき川に飛び込んだだろう?その行動と、同じ理由ではないかな」
伯爵は、澄んだ声で、ジーナに語りかける。
「あの時私は死ぬつもりはありませんでした。あの行動によって、なんの不幸も被る気もなかった。それに、あれは…あの二人のためではなく、村人と貴族の子弟をあのまま死なせたら、イヴァン様にとって不名誉なことだと思ったからです。」
淡々と言うジーナに、伯爵は眉を下げ、灰色の瞳を細めて優しく微笑む。
「ジーナは優しくて、実は色んな人に愛を持っていて、そのために行動しても危険を感じないほど、強い子なんだよ。初めて出会った時も、氷の湖に落ちた私を助けてくれただろう。いちいち私のように二の足を踏まなくても、すぐ行動できる人なんだ。」
きらきらと西日に輝く伯爵の銀の巻毛と、硝子玉のような瞳を見つめながら、ジーナは思う。
(違う、弱い心と身体を持ちながら、恐怖に打ち勝てる貴方のほうが、強いひとだ。愛を知っている、貴方のほうが。)
ジーナは何も返さず、伯爵から視線を外し、ただ馬が進んでいく前方を見る。伯爵もそれ以上は何も言わず、二人の馬は並んで歩き続けた。
以前、エリクに言われた言葉をジーナが思い出すことはなかったが、呪いは確かに彼女の心に波を起こしていた。