貴族と宿屋の娘
伯爵の城の応接室の久しぶりの来客に、城は少し騒々しくなった。その上、相手は低位とはいえ貴族である。男爵のことを思いだした執事は不安に思い客人の顔を見に部屋の扉を開けたが、伯爵に負けず劣らず気弱そうな青年の姿を見た途端、微笑んでお辞儀をすると、退室した。
ビロード張りの椅子に腰掛け、ジーナが注いだ紅茶を客人に勧めたあと、伯爵は本題に入った。
「それで、その……、貴方とオレーナは恋人同士だったのですか」
遠回しに聞こうとした伯爵だが、上手い言葉が見つからなかったのだ。
ヴィクトルは伯爵の顔ではなく、ぼんやりと壁を見つめながら、話した。
「あなた方の言うとおりです。私はこの近くに遠乗りに来た時に泊まった宿…彼女の家でオレーナに出会い…何度か訪れて話をするうちに太陽のような彼女に惹かれ…恋人になりました」
ヴィクトルは、コザークと川向こうの国の貴族の血を引く両親の、三人目の子供だった。薄い金髪に翠の眼を持つ彼は、優男として女性にはそれなりに誘われた。とはいえ、聖職者になる予定もあった彼は、軽い火遊び程度に、家柄の差の小さい貴族の女性と睦みあったことしかなかった。
銀髪の鬘や白粉に飽きた彼が、素朴ながらに美しい村娘に惹かれたのは当然の成り行きだった。
馬で野や森をかけ、美しい景色を眺めるのが好きな彼は、遠乗りによくでかけた。その日も草原をかけ、緑濃い森に入ったところ、野兎を仕留めるのに熱中し、気づけば日が暮れかけていた。木々のおどろおどろしい影を見たヴィクトルは、幽霊伯爵の噂を思い出し、肩を震わせた。
(忘れていたが、この森は伯爵の領地かもしれない。許可も得ず狩猟をしていたことが伯爵の耳に届いたら、自分は生きて帰れるだろうか。)
街道で賊の餌食になるのも避けたいが、幽霊城に厄介になるのも恐ろしい。板挟みの中、とりあえず落ち着ける場所が欲しかったヴィクトルは、森から抜けた村の入口近くにある宿屋に泊まることにした。
「貴族の方?うちはただのぼろっちい宿屋ですよ」
古びた宿屋のカウンターには、思いがけず美しい娘が佇んでいた。赤みがかった茶髪に、ぱっちりと大きな青い目。珍しい髪色に、まずヴィクトルは惹かれた。
「構わないよ、とにかく一眠りできれば…」
ぶっきらぼうな返事をしながらも、木板に肘を乗せ、甘い瞳で彼女を見つめてみる。娘は貴族に誘われても、頬も染めることなく、ただ思わせぶりに微笑んだ。
「近くに食べれるところはあるかな」
腹を鳴らす彼に、娘は扉の外を指差した。
「酒場は広場の方にありますよ。田舎料理ならうちでも食べられるけど。」
「君が給仕しているなら頂こうかな」
ヴィクトルは右手に顎を載せ、上目遣いに娘を見つめる。しかし彼女は帳簿を見ながら、呟いた。
「今日は弟の番かしら」
「連れないな」
「貴方、行く先々で村娘に声をかけているの?怪しまれるわよ」
訝しげな視線に負けず、ヴィクトルは素直な思いを口にした。
「街の外で女性に話しかけることはめったにないよ。僕は単に君と話してみたいだけだ」
「あらそう?…なら、うちより酒場に行きましょう」
彼女は思ったより冒険好きだった。わざわざ両親の目を離れた場所に誘ったのだ。
酒場は散々だった。うるさいのはともかく、あまり美味しくない飯に質の悪い酒、絡んでくるたちの悪い酔っぱらい。こちらもよってしまえば楽しいが、彼女の手前平静を保ちたかった。おまけに賭けカードでは負け続け、彼女にもかなり渡した。
「僕から盗む気で?」
「貴方が賭けたのよ。ほら、そろそろやめたら」
予想より強い酒に酔ったヴィクトルは千鳥足のまま、オレーナに釣れられて宿に戻った。とても彼女をベッドに誘えるような状態でもなく、そのまま自室で寝てしまった。翌朝、宿を立つ前に、金槌で叩かれているような頭を抱えながら、ヴィクトルはオレーナに聞いた。
「また来てもいいかな。この辺りの景色が好きで」
ヴィクトルが住む街の周辺と比べ寂れている以外に村の景色の大差はなかったが、ヴィクトルは適当な理由をつけた。
オレーナはなぜか少し顔を赤らめて、もちろん、と頷いてくれた。
ヴィクトルの記憶からは抜け落ちていたが、昨晩酔ったヴィクトルは酒場から帰る途中、ひたすらオレーナを褒めていたのだ。
それからヴィクトルは火傷をしている自覚もなく、火遊びに夢中になった。何度目かの逢瀬のあと、オレーナに口づけされた時は初恋のように心臓は跳ね、森で身体を赦された時は、初めてのように不器用に燃え上がった。ヴィクトルはオレーナと二人で草原をかけながら、いつか大きな街に連れて行こうと笑い合い、二人は花畑や星空を一緒に愛でた。しかし甘い夢の時間は、やがて覚める。
オレーナと恋仲になって一年ほど経とうかと言うとき、ヴィクトルは急に県都に住む父に呼び出された。
 




