得るものと失うもの
(何を言ってるんだ?)
全く予想外の青年の言葉に、ジーナと伯爵は呆気に取られた。
「それって…?」
オレーナは恋人の言葉の意味を探して、問いかける。青年は目を閉じ、深呼吸をして、はっきりとした口調で話し始めた。
「君と会ってから、ずっと考えてたんだ。余りにも子供じみたことだと思っていたから、口には出せなかったけど…。僕は聖職者や役人や騎士になるより、君と一緒に宿屋を営みたいって…。」
「つまり…貴族の身分を捨てるってこと?」
「…ああ。これは、君のためではなく、僕のために、そうさせて欲しい。」
「…本気?」
試すような、心配するような表情で首を傾げるオレーナに、ヴィクトルは真面目な表情で語る。
「僕は…今は掃除も料理も家畜の世話もろくにできないけど、帳簿をつけたり経営を助けたりするのは力になれると思う。それに笑顔でお客さんを迎えたりするのは得意だよ、相手が無骨な大男でも。君の家族にも認めてもらえるように、毎日働く。君とあの宿で暮らすためなら、何だってする。もし僕がすぐにやる気をなくして何もせず浮気したりしたら、追い出せばいい。…だからどうか…、僕を、君の夫にしてくれ!」
「そんなにいっぺんに言われても、わからないわよ」
跪く恋人に、困ったようにオレーナは笑い、そして彼の手を取って言った。
「でも、やっぱり貴方と結婚したいって、自分の気持ちは分かったわ。そこらの村人より、真面目に働いてくれそうだしね」
「オレーナ!」
ヴィクトルは立ち上がって恋人に抱きつき、また口づけをかわす。ジーナは無表情で眺めていたが、伯爵は彼女の視界を塞ぐべきかと悩み始めた時、
恋人たちは睦み合うことをやめ、伯爵の足元に跪いて、懇願した。
「伯爵様、命を救っていただき、ありがとうございます…。そして、どうか、さらなる無礼をお許しください、お頼みしたいことがあるのです………」
「な、なんだい…?」
青年の畏まり、真剣な声色に、伯爵はたじろぐ。伯爵として城に引きこもって暮らしていた彼は、面と向かって人に物を頼まれることは、あまりなかった。
「貴方の村の教会で、彼女と結婚させてくださいませんか。この町で式など上げたら、家族に見つかって連れ戻されてしまう。家族には、然るべき時に伝えます。」
「伯爵様、どうか、お願いします。」
伯爵は思わぬ頼みに、冷や汗をかく。他人の彼らの運命を自分が決めるのだと、領主の責務を自覚すると、伯爵の頭はくらくらしてきた。
伯爵は脳内で必死に慣例集や法令、聖書をめくる。
「つまり、ええっと……貴方は、私の領民になると?」
なんとか絞り出した伯爵の言葉に、ヴィクトルがすぐに答える。
「ええ、爵位は捨てます、貴方の農奴にもなりましょう」
「いや、我が村には農奴はいないのだけれど……、それは今はいいか…、うむ………………貴族は土地には縛られていないから…いいのかな…?」
伯爵は眉をハの字に顰めて、珍しくシワの寄った眉間を中指で押さえ、即座に答えを出せない、自分の勉強不足と胆力のなさに悩む。
「イヴァン様、こんなことを許可したら、貴方の立場は悪くなりませんか」
隣のジーナは低い声で、伯爵に聞いた。伯爵は彼を見上げるジーナに目を瞬かせ、答える。
「貴族と平民の結婚は、許されないわけじゃない、はずなんだ…。かの大帝は農民の娘を帝妃にされたし、女帝の時代まで帝国の貴族ではなかったコザークも、逆も多い。まあ、大帝は秘密結婚だけれど…。最近も、貧しい貴族は富裕な商人と結婚したりして、財産を得るしね。河向こうの事情はわからないけど…どちらかといえば、彼の家族が許すかどうか、だな。」
伯爵の話は難しくジーナには理解できなかったが、伯爵が女帝や法廷に引きずり出されるような大罪でないならと、それ以上は何も言わなかった。
一方の伯爵は深くため息を付く。彼らの状況を考えれば十分あり得る展開だったのに、自分は彼らの身を保護する覚悟などできていなかった。ジーナを連れ戻した時のように、何が正しいのかも判断がつかない。
「私としては、身分を超えた愛を否定する気はない……けれど…、ご両親の前から姿を消すのは…」
ヴィクトルの両親が怒って村まで来たら?ジーナが案ずるように法廷や県知事に訴えたら?伯爵の身だけならともかく、村人たちの生活は荒らされないだろうか。
伯爵は情けなくも少女を頼り、ちらりと彼女の横顔を見る。ジーナは無表情な上に沈黙し、壁に反射する光の水面を見ている。彼らの命は助けても、愛の行方には興味はない、といった様子だ。いつも伯爵の力になってくれる彼女の手も、今回ばかりは借りられそうにない。
伯爵は、瞳に静かに燃える炎をたたえ、跪いて自分を見つめる恋人たちを見る。
(私が許可を出さなかったら、彼らはどうするのだろう。)
少なくとも、今愛を諦める選択肢はないだろう。
二人で別の地へ駆け落ちして、新しい宿を営むのだろうか。それならば、伯爵がここで責任を取る必要はない。しかし、オレーナの家族は娘を、伯爵は領民と、村一番の宿屋を失うことになる。
もし彼らの結婚がうまくいけば、オレーナの家族や友人は彼女と別れずに済み、村には若者が一人増え、彼らの子供も増える。オレーナの宿がうまく行けば、村に立ち寄る人も増え、貧しい村の収入も増えるし、不作や冬に農民たちができる仕事の糸口も見つかるかもしれない。ヴィクトルは高等教育を受けているし、仕事の合間に村人たちの教育もしてくれるかもしれない。伯爵は以前から、村の学校制度を考えていたが、子供以外の村人や、貧しい家の子供は学校に通う時間がないのだ。
ヴィクトルの両親も、息子に会いに来ることはできるだろう。それに彼らが敬虔な教徒である限り、神の前での誓いを無視することはできない。
(そして私はこれでも伯爵で領主だ、彼らのことは守らねばならない)
伯爵は恋人たちが膝に疲れを感じるまで悩んだ末、顔を上げた。
「……分かりました。このまま村の教会に行って、結婚式を上げましょう。」
伯爵の言葉に、恋人たちは顔を輝かせて頷き、何度も感謝の言葉を述べた。
こっそり事態を見守っていた町人は、これは面白い、と笑ったり、恋人たちに共感して涙を流していた。
対してジーナは、驚きに大きな目を見張って主の顔を見上げたが、何も言わなかった。
18世紀ウク○イナ身分制に明るくない上コサックとか外国人貴族とか考え始めると…
フランスだと割ともう金のない貴族と金のある平民の結婚はあったし、王族以外はそんなでもなかったのだろうか。
貴族と商人が結婚してた話は軽く論文で見ました。
解放農奴と結婚した大貴族もいたとか
まあ貴→賤な上に中貴族の三男坊だと、家族以外は勝手にすればなのかなと…
伯爵ぐらいだとハードル上がりそうですね