湖面と幻影
伯爵の村には、広場の近くに大きな湖がある。かの雄大な河の支流につながる湖は、夏の陽光を反射してキラキラと輝いていた。昼食を終えた伯爵とジーナは、オレーナが身投げしたと噂がある、その湖のほとりを歩いていた。
しかし娘の影が見えるわけでもなく、穏やかな水面を見つめながら歩いていると、前方に人影が見えた。村人が着ない、絹の服を見て目当ての人物だと二人が気づくと同時に、芯を失った若者の身体が、湖に向かって倒れ込んだ。
伯爵が悲鳴を上げる間に、ジーナは走って湖岸についた。ジーナがベストを脱ぎ捨て、湖に飛び込み、若者を抱えているのを見た伯爵は急いで後を追い、骨しかない腕で、ジーナと二人でなんとか若者を引き上げた。
「なんてことをするんだ!身投げなんて」
先日と違い、意識ある青年に向かい、伯爵は背中を擦りながらも、叱るように叫ぶ。伯爵より少し若く見える青年、ヴィクトルは、飲み込んだ水を吐き出し、咳こんだあと、途切れ途切れに言った。
「ルサールカ…ルサールカに引き込まれて………、違う、あれは……、オレーナ……」
ヴィクトルは確かに先程、湖面から伸びる若くして死んだ未婚の花嫁たちの手の中に、彼女を見た。
いつも彼を照らすように輝いていた光を失った、虚ろな目で自分を見つめる恋人を。そしてその血の気を失った白い手に導かれるように、昏い水底へ倒れ込んだのだ。
しかしそれは、彼だけに見えた幻だった。
「私達には、貴方が自分で飛び込んだように見えましたが」
びしょ濡れのシャツの裾を絞りながら、ジーナは冷静に指摘する。
ヴィクトルはそれでも頭を振り、水面に彼女の姿が見えたんだ…と小さな声で、虚空に向けて繰り返した。動転している若者を見て、らちが明かないと判断したジーナは、伯爵に城に彼を連れて行き、落ち着いてから話を聞くことを提案した。
「3人ともずぶ濡れだし、そうした方がいいね、…」
実のところ目のやり場に困っていた伯爵は青白い顔で頷いた。
「さっきは怒鳴ってしまって、すまない…。…ヴィクトル…さん?。我が城で休んでいかれませんか。」
貴族の子弟に対する態度ではなかったと、伯爵はしどろもどろに謝罪してから、上の空で水面を見つめる青年に呼びかける。青年からの返事はなかったが、やんわりと手を引くとついてきた。村にいる兵士に頼み、城から呼んだ馬車に青年を押し込み、2人は城に帰った。馬車の中のビロードの青い座面は濡れてしまったが、伯爵は冬でなくて本当によかった、とだけ紫色の唇からこぼした。
城の門につく頃には青年も正気を取り戻し、事を理解して伯爵と小姓に頭を下げた。
伯爵が濡れてしまった青年の革のジャケットの代わりにと、金刺繍入りのジャケットを持ってきたので、青年は整った眉を下げ、困った顔で返した。
「お気遣いなさらず…私は貴方よりもとても低い家柄ですから、スヴェトフスキー伯爵。お祖父様の武勇はお聞きしております」
そして、悲しそうに金色の睫毛を伏せられ、翠の目が翳る。ヴィクトルは一呼吸して、震える唇を開いた。
「私には、貴方の領民のオレーナとの関係について…お話しする義務があるでしょう」




