噂と真
オレーナの家は村唯一の宿屋で、一階では食堂も営んでいた。赤みがかった茶色い髪と空色の瞳が特徴のオレーナは、宿屋の看板娘だった。
看板娘のオレーナがいない中でも、食堂は開いていた。しかしそこにいつもの活気はなく、村人たちからは看板娘の身を案じる声や、下世話な噂話を囁く声だけが聞こえた。
そんな平民が食事をとる食堂の中で、いつものかつらもつけず、白粉も口紅も塗っていないものの、上質な衣服を着た、どう見ても所作が平民ではない伯爵は明らかに浮いていた。さらなる噂の種になるであろう伯爵は、娘が行方不明の中で宿と食堂を切り盛りせねばならないオレーナの家族に同情しながらも、全く来たことのない雰囲気の場にそわそわと落ち着かず、正直に言えばものめずらしさで興奮していて、そんな自分を恥じていた。そもそもただ娘の家族に会えばいいものの、伯爵はつい村人と同じ食事をしてみたいという誘惑に負け、家族と話すだけではなく、料理もいただこうと、客として店に入ったのである。
仄かに香る肉団子の匂いに伯爵は文献で読み、憧れた庶民の手料理を食べられると、わくわくと興奮していた。ジーナは特に物珍しさは感じていなかったが、娘のことは頭の隅に置き、他のテーブルの料理を見回し、頼むものを決めていた。
注文を受けに来たオレーナの弟は目を見張った。領主その人がぼろ食堂の、巨漢が座れば壊れそうな木椅子にこしかけているではないか。
「伯爵様!?何の御用で…」
と言いかけたところで、オレーナの弟は、姉の失踪を税逃れの失踪と疑われたかと、怯えた目をして、不気味な風貌の青年を見た。
「君の、お姉さんか妹さんのことなんだけれど、」
「あ、姉は!オレーナのことは!本当に何も知らなくて…」
伯爵が口を開くと、少年が動揺した声を上げるので、何事かと厨房から両親が顔を出し、息子同様に蒼い目を見張って固まった。料理は頼めなさそうだな、とジーナはよく似た顔立ちの家族を眺めていた。
「オレーナのことは、私達も何も…」
伯爵がオレーナの行方について質問した後、伯爵とジーナのテーブルの前に集まった彼女の家族は、話した方が見つかるかもしれない、とか、そんな恥…などひそひそと会話したあと、しんとだまり込んでしまった。しばらくして結局、父親が伯爵に向き直って、囁くような小さい声で言った。
「恥ずかしいことですが…」
家族が言うには、オレーナは結婚が嫌で行方をくらましたのではないか、という。
「あの子は器量と気立てがいいからいい婿が見つかると村中で探して、仕立て屋のところの、優しい青年を見つけたんです。顔だって、中々勇ましくていい男を。なのにあの娘といえば嫌だ嫌だといって…」
「俺たちはオレーナはやがては折れると思ってたんですよ、それが夏至の夜にあいつに恋人がいたのを初めて知った。だから、オレーナは結婚が嫌で逃げだけだと…」
「でも、湖でオレーナを見た人もいるんだろ」
夫婦の言葉をオレーナの弟が遮ったのを皮切りに、家族は領主の前で口論を始めてしまった。
「噂だよ、」
「夏至の夜の男、きれいな服を着てた、きっと貴族だ。オレーナはあいつに遊ばれて、湖に身投げを…」
「縁起でもない!あの娘が男に捨てられて命をただ棄てるわけないだろ!それなら相手はもう死んでるよ」
やや取り乱した様子の弟の言葉を、両親が宥めるように否定する。しかし、母親の言葉に栓が切れたように、弟は声を張り上げて叫んだ。
「じゃあ姉さんはどこにいるんだよ!居場所がわからないなら、死んだのと同じじゃないか!!」
弟の声に、家族の論争を無視して、ひたすらチョークで書かれたメニューを見ていたジーナは視線を上げた。伯爵はああだこうだと言い合う家族に部外者として何も言えず、ただ引け腰で事態を見守っていた。
「とにかく、そういうわけで…あの子は手紙も何も残してないから、私たちは推測しかできません。でもなんとなく、あの子はどこかにいて、頭を冷やしたら戻ってくる気がするんです」
「そうかな…オレーナは決めたことは曲げないだろ」
オレーナの父親は、家族の醜態をさらして恥ずかしいという様子で、伯爵の方を向き直って取り繕うとした。しかし弟はまたしても父の言葉を否定する。そんな、伯爵の前で体裁を気にする父親に反駁する息子に、母親が釘を指した。
「あんたは黙ってな」
睨みあう母親と息子の前で、伯爵は何も言えずに固まった。そして伯爵は、思いの外元気そうなオレーナの家族の様子に胸を撫でおろしながらも、彼らのために娘を見つけなければ、という使命感に駆られる。
「事情は、分かりました…。攫われた可能性もあるかもしれないし、私ができる限りの手を使って彼女を探しましょう」
やや視線を彷徨わせながらも、真摯な物言いをする伯爵に、噂の幽霊領主は思ったより誠実な青年なのかもしれない、と娘の家族は思った。
「お願いします。…私達には何も代わりに差し上げられるものはありませんが…。この田舎料理でよければ、伯爵様に…」
両親は領主に恐れ多いと頭を下げながら、厨房を指差して言った。伯爵は思わず瞳を輝かせてしまい、ジーナは腹が鳴らなくてよかった、と安心した。
「それは、とんでもない、ええ、ぜひ、食べてみたかったのです」
そして伯爵とジーナはようやく、昼飯にありつくことができたのだ。




