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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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閑話|父親の追想

18世紀の話

ワジーリは飲んだくれの父に何かを教わった記憶がない。教えてもらったことといえば、強者には楯突くなと言う真理だ。ワジーリの父は、ろくに彼の名を呼ばなかった。あれ、とかそれ、などもののように呼び捨て、道具のように使っては、気に入らないことがあれば殴った。父に暴力を振るわれていた無口な母は、ワジーリが物心つく頃に死に、ワジーリは殺したい程憎い親父と一緒に住んでいた。ワジーリは親父に指図され毎日働きながら、毎晩親父を殺す夢を見た。ついに実行しようかというとき、親父はぽっくり逝った。ワジーリは親父の墓はつくらず、ただ死骸を家の庭に埋め、領主に親父が死んだことだけ報告した。親父が死んでしばらくワジーリは一人で暮らしていたが、領主の命で彼は結婚することになった。相手は美しい女だったが気立ては悪く、天然痘跡の残るワジーリを醜男と罵った。噂によれば、老いぼれた領主と関係を持ちながら、他の若い貴族と駆け落ちをしようとし、見捨てられた村娘らしい。愚かな女だとワジーリは思った。互いに好き合っていない男女がうまくいくこともなく、嫌々ながら二人は暮らし、自分たちを養うための子供をつくった。 

恵まれない人生を歩むワジーリだが、ある日更なる不幸に襲われ、片脚を失った。悪いのは馬車だというのに、夫が使い物にならなくなったことを知った妻は夫を役立たずと罵った。ワジーリは父のように酒に走り、代わりに小さい息子を働かせた。


息子の名はイーゴリと言った。






パニヒダ(死者への祈り)が始まる前、教会の外でジーナの父を見つけた伯爵は、恐る恐る彼に声をかけた。イーゴリの死について聞かれた伯爵は、ジーナの名誉のためだと真相を改めて話した。長い沈黙のあと、前に啖呵を切られた時とは別人のようにびくびくしている伯爵に、ワジーリは彼の半生について語り始める。酒臭い息で息子の話をする父親の顔には、悲しみの表情はない。諦めたような、遠い目で、彼は遠い日のことを、淡々と語るだけだった。


「俺は、最低な父親だっただろう。それでもイーゴリは従順に従ってた。あの雪の日が、初めてあいつが俺を殴った日だ。片足のない俺が、あいつにかなうわけねえのに。」


虚ろな目で空を仰ぐワジーリの声色に、伯爵は悔恨と怒りを感じた。まるで遠い世界の住人のように思えたジーナの父親の内面を伯爵は探る。


(彼は後悔しているのだろうか。息子に辛く当たっていたことを。)


伯爵の推察を肯定するように、ワジーリは深いため息と共に、彼の胸の底に沈んでいた、自身も気づいていなかった想いを語る。


「俺は、…俺たちは、ジーナのせいにしちゃいたが、イーゴリが本当はどうして死んだか、わかってたさ。だが………認めたくなかった。罪悪感も、気づかないふりをしてた。」


(彼は、私に…彼らを苦しめる領主たちに怒っていたと思ったが、…私たちだけでなく、自分に怒っていたのか…)


自分が城で高い金を払って家庭教師から教育を受け、気を塞んでも暖かいベッドで眠っていた間、貧しい冬を過ごしてきた彼らを責めることなど、伯爵にはできなかった。あの時はジーナをむげに扱う彼女の両親への怒りで伯爵は彼らに辛辣な言葉を浴びせたが、ワジーリが息子の死に苦しむ父親であると知った今の伯爵には、彼にかけるべき言葉が見つからなかった。暖かい春の風の中で、二人の男は沈黙する。


(…しかし、イーゴリが望むとすれば…彼がこの人に望むことは…)


伯爵は、妹を一人で守った青年の願いを考え、ジーナが読んだ彼の手紙を思い出す。彼は自分の死後も、家族の安寧を望んでいた。


「…イーゴリのことは……あなた達だけの責任ではない。………今は、ジーナにも、向き合ってくださいませんか。」


イヴァンは、視線を逸らさないように努めて、ワジーリの半開きの眼を見つめながら言う。彼の顔には、天然痘の跡だけでなく歳に似合わぬ皺が刻まれ、農夫の苦労を物語っていた。しかし、彼がどんなに困難な人生を送っていたとしても、今生きている娘を大切にしない道理はないと、伯爵は彼にしては強い口調で頼む。対するワジーリは伯爵の硝子のように透き通った、しかしぎょろついて不気味な眼から目を逸らし、軽い調子で話をそらす。


「あいつは強いから、俺たちのことなんてもう知ったこっちゃねえだろ。上手くすりゃ伯爵夫人か?毒でも盛られねえように気をつけてくださいよ」


「ジーナはそのような子ではないこと、ご存知でしょう…、……。イーゴリとジーナはあなた方を気にかけていましたし、今も…。あなた方が帰って来たジーナを暖かく迎えるなら、ジーナはきっと、」


ワジーリの面白くない冗談に伯爵は不快感を示す。ジーナは自らの力で道を切り開く強い子だが、富のために人を裏切るような人間ではない、と伯爵は思っていた。伯爵はまた、ジーナが両親に情を持っていると、信じていた。しかし伯爵の理想を、ワジーリはすげなく遮る。


「貴族様の考えることは、わかんねえな」


伯爵は悲しげな瞳で、貧しい領民の男を見つめた。彼にとって子を愛する親とは、貴族の戯言に過ぎないのだ。伯爵は、身分に関係なく親子愛が存在しうることを信じていたし、イーゴリのことを尋ねに訪れた村人の家族達は、ジーナの家に比べれば裕福とはいえ、皆穏やかに互いを慈しんでいると伯爵は感じていた。それに、貴族であっても、違いを憎んだり、蔑み嫌う親子は山ほどいる。伯爵は祖父と父の間に、愛情があったのか昔から疑問だった。祖父は父に歪んだ愛で鞭を打っていたのかもしれないが、父は祖父が亡くなった時、心底安堵した表情を浮かべていた。


(それに、血が繋がってないとはいえ、義母様(おかあさま)は…。思い出したくもない)


伯爵は、封じている記憶の扉を開きそうになってしまう。彼女達が愛と呼んだものは、イヴァンにとっては暴力だった。


(暮らしが豊かになれば、彼らはまだやり直せるだろうか)


伯爵はジーナの両親の娘達への扱いを、彼らの貧しさのせいだけには出来ないと思いながらも、彼らがこれから家族としてやり直せる可能性を捨てていなかった。しかし今は、伯爵はワジーリと議論することを避け、死んだ彼の息子の追悼に参加しないのかと尋ねる。


「教会には、入らないのですか」


「俺は神なんか信じちゃいない。それにいたところで、自分で死んだやつも、死なせたやつも、神さまはお許しにならないだろ。」


そっけないワジーリの言葉に、伯爵は彼を説得しようとしたが、続く言葉に口をつぐんだ。


「祈りなんか唱えなくても、忘れられねえよ。イーゴリや死んだ子供たちの顔はな。全く、気味が悪い。」


その時伯爵は、一瞬ワジーリの疲れた目に、生気が宿った気がした。仕事をさせるためだけに、自分たちのためだけに子供をつくったというこの男は、今も土に埋めた子供たちのことを覚えているのだ。恐らく、生まれてすぐ死んだ子供も含めて。


「それは…」


「じゃあ、失礼しますよ。」


なぜ自分の心に向き合わないのかと、伯爵はお節介を言おうとしたが、ワジーリはさっさと立ち上がって、まだ誰もいないであろう家への路を戻っていった。


足の痛みに苦しみながら去る男の侘しい背中を見て、伯爵は胸が締め付けられた。伯爵はジーナの家に行った時は、なんてろくでもない親なのか、彼らに親たる権利などあるのかと憤った。しかし、今伯爵が話をした男は、紛れもなくあの兄妹の、イーゴリとジーナの父親だ。粗暴なワジーリとは似ても似つかぬ物腰柔らかで柔弱で、祖父には軟弱者と罵られていた父の姿を、伯爵は何故か彼と話して思い出した。

伯爵は、ジーナの両親が、これから子を愛し、彼らへの愛を表現する術を身に着けることを信じようと決心する。


教会の扉を開く前、伯爵はもう一度振り返って、丘の下へと遠ざかる小さな背中を見る。骨が浮いた身体は、風が吹けば飛ばされそうだった。


(今度、腕のいい鍛冶屋に義足をつくらせて届けよう)


祖父とも父とも違う道を歩む伯爵は、もう村人の誰も失いたくなかった。

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