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伯爵の天使

バーバ・ヤハよりも恐れ、嫌厭していた場所に、伯爵は佇んでいた。蝋燭やランタンでいつも薄暗く照らされ、煌々と燃えるのは暖炉の炎だけである伯爵の城と違って、そこは光に溢れていた。


頭上のシャンデリアの眩しさに、伯爵は目を細める。蒸せ返る雑多な香水の匂いと男女の笑い声、その空間の全てが伯爵の弱い心を震わせ、踵を返せと責め立てた。伯爵は仮面越しに談笑する着飾った人々を見つめながら思わず考える。誰も彼もが仮面を着けている舞踏会は、まさに貴族社会そのものだ。伯爵が思うには、仮面がなくとも、貴族は四六時中宮廷で仮面演劇を演じていた。女性恐怖症はわきに置いても、仮面を作り上げるのも、演じ続けるのも上手ではない伯爵は、大帝から先祖が頂いた爵位を受け継ぎながらも、その舞台に上がりたくなくて、辺境にある古城に引きこもっているのだ。そして、都から離れた深い森にある不気味な古城から出ない伯爵は、不健康な見た目と相俟って、領民からも他の貴族からも、幽霊伯爵と渾名されるようになった。


見慣れない風貌の伯爵に話しかける他の招待客は居なかった。そして誰に話しかけるのも億劫な伯爵と、伯爵に仕えるジーナは目立たないように、二人で隅の壁にもたれ掛かっていた。もっとも、背の高い民族である同胞の中でも、頭ひとつ高い伯爵は隅にあっても存在感を放っていた。伯爵は悪目立ちする度胸もなかったので、帝国の貴族の正装にふさわしく新調したコートを羽織い、銀色の巻き毛をいつにも増して丁寧に整え、輝かせている。さらに、出っ張った頬骨も上手な具合に顔半分を覆った仮面が誤魔化し、隈が濃い不健康な目元も隠されていたので、今の伯爵は、婦女子から見て魅力的な謎の貴公子であった。伯爵自身は、己の佇まいすら不気味なために避けられていると傷心していたが。ひそひそと色めきだった声が耳に入ると、伯爵のあまりよくない顔色はさらに青くなる。


「ああ、来てくれていたんだね。」


もの好きな貴婦人1人、2人からの誘いをしどろもどろに断り続け、壁と同化することに徹していた伯爵と、料理や酒を彼のために運び、ついでに自分の分も確保し肉を無表情で頬張っていたジーナに、伯爵の苦しみの元凶、男爵が声をかけてきた。仮面を被った男爵の隣には、ジーナより少し背の高い、彼女と同じ年頃の小姓が控えている。彼を見た伯爵は、息を詰まらせた。彼こそ、男爵とともに伯爵を苦しませる悩みの種、しかし恋い焦がれる天使でもある少年だった。

伯爵は仮面の奥で目を潤ませたが、対する少年の感情は、仮面に隠れていた。


「エリク…君、エリクなのだね」


感極まった伯爵は、弱々しく、しかし熱がこもった掠れ声を出した。


「お久しぶりです、伯爵様。」


少年は慇懃なお辞儀と温かい声で、親愛を示した。それだけで、伯爵は悲しみが癒された気分になった。隣の男爵は愛人と伯爵のやり取りに口は挟まず、仮面に覆われていない口元は微笑んでいる。


「元気そうで、よかった……。安心したよ。」


伯爵は微笑んで言った。ジーナは自分より位が高いと思われる少年に無言で会釈し、この場では置物になることを決めた。伯爵が天使のように語っていた少年を実際に目にして彼女が考えていたのは、綺麗な薔薇には棘があるということだ。彼女はこの時伯爵の痴情のもつれに特に興味はなく、自ら危険に近寄る趣味はない、と考えていた。


「伯爵様は、お変わりありませんね。」


仮面の下から覗く口元は、春の女神のように、美しく微笑んでいる。しかし、彼は、仮面の裏で伯爵を侮蔑の目で見ているのではないか、何故かジーナはそう感じた。当の伯爵は、彼の毒を感じているのかいないのか、曖昧な笑みでうん、と答えている。


「積もる話もあるだろう、別室で「いえ」」


小姓を寝とった張本人である男爵が口を開いたとき、伯爵とジーナがいぶかしむ前に、小姓本人が男爵の提案を断ってしまった。

ふいに少年が仮面を取る。仮面の下からは、聖画の天使の如く整った愛らしい顔が現れた。しかし、天使というには蠱惑な表情で、小姓は男爵に人目も憚らずすり寄る。ジーナは変わらず無表情で二人を見ていたが、伯爵はショックで目を見開いた。


「男爵様はここ数日、舞踏会の準備でお忙しかったので、…僕、二人きりの時間が欲しいのです。」


少年は男爵の耳元に、切なげに、囁くように言ったが、伯爵たちにも届く声量だった。伯爵たちに、それが彼の意思であると知らせるように。少年は男爵の胸に手を這わせ、首元の襟のボタンを外そうとする。衆目の前で行うべきではない仕草だが、背の高い伯爵が丁度影を作っているので、他の客は気にせず踊り続けている。男爵はため息をついて少年を制止すると、伯爵たちに向き直って仕方なさげに言った。


「やれやれ、仕方のない子だね…。では、今日はこれで、すまないね。舞踏会はまだまだ続くから、楽しんでくれ。」


男爵は、本当に申し訳なさそうな声色で詫びた。しかし、二人の去り際、男爵は少年の腰を抱いており、彼らが階上の小部屋で何をするのかは伯爵にもジーナにも予想がついた。


(エリクに男爵が誑かされているのか、それとも…)


と、ジーナが冷えた目で二人の関係を推察していた時、横に立つ伯爵の大きな身体が、ふらりと揺らめいた。


ジーナは驚いて、伯爵の身体を何とか一人で受け止める。縦に長いが肉のない骨ばかりの身体は、思いの外軽かった。ジーナは彼に声をかけようとして、彼が気を失っているのに気づく。

色恋沙汰で卒倒する人間などおとぎ話の中にしか居ないと思っていたジーナには、裸を見られたことよりも衝撃的な出来事だった。

それでも彼女は、一つ深い呼吸をすると落ち着き、従者として自分のすべきことを考え始めた。


最中であろう男爵たちに頼むわけにもいかず、ジーナは一緒に来たはずの伯爵の使用人、御者を探し出し、二人で伯爵を馬車まで運び、煌びやかな屋敷を出て夜の森に抜けた。舞踏会に招待されたというのに、伯爵もジーナも踊るどころか、ろくに他の客と会話もしていない。使用人だけが、こっそり令嬢と踊っていた。そして、謎の長身の憂鬱そうな青年と、側に仕える有能な小姓の噂は二人の知らぬ間に社交界に広まる。



一方、馬車に揺られながら外の暗闇を見つめるジーナが考えていたのは、舞踏会で使用人を探す中聞いた、招待客たちがしていた噂のことだった。




「ご存知?男爵様の奥様、また…」


「前の愛人もね」


「流石に、おかしいと思わないか?巷では、悪魔に生贄を捧げているなんて噂もある。」


「まあ、みなさま、失礼だわ!あれほど寛容で陽気で慈悲深いお方をそのように言うなんて!きっと不幸の星の下に生まれただけよ。」


「確かに彼は気がいいが…私は時々、彼の瞳を見ていると、底の見えない闇を覗いている気分になるよ。」


「あら、深淵を覗く方が、あなたの目のような、浅い水たまりを覗くより楽しいものだわ。」


「夫人のおっしゃるとおり。こいつは、自分よりご婦人方の注目を集める、あの神秘的な男に嫉妬しているだけさ。」


「なんだって…!?………いや、まったくその通りさ!あっははは」


「ふふふふふふふ」


「ははははははは」


「うふふふふふふ」


「あははははは…」




男爵の奥方が亡くなったのは、彼らが口にした婦人で、三人目だった。さらに、エリクの前に居たという、愛人まで亡くなっている。妻を亡くすのはこの時代珍しいことでもないが、伝染病が流行ったわけでもないというのに、立て続けに亡くなったため、男爵が殺人狂だと、二人目の妻の後に愛人が亡くなった時から周辺では噂になっていた。

それにもかかわらず、彼の身分のせいか、後ろ盾があるのか、噂は噂で止まり、それ以上追求しようと思うものはいなかった。


社交界や貴族とは全く縁がないジーナの耳にも、男爵の噂は届いていた。当時はただの辺境領の平民だったジーナには関係のない世界の話で、彼女はそれよりも明日の食料や冬支度について気を揉んでいた。

しかし、ジーナは今や伯爵の従者となったので、彼女に衣食住を提供してくれる伯爵の元愛人と友人のことは、ジーナの明日にも関わりうることになっていた。


(伯爵はあの少年にただ揶揄われ、心を弄ばれているだけかもしれない。)


(それでもあの繊細なご気性だ。エリクが死んでしまったら自死か、一生寝台から出てこないのではないか。)


ジーナは隣で眠る、顔面蒼白で濃いくまを作っている伯爵の顔を眺める。伯爵に雇ってくれと頼んだ時の彼女は、気塞ぎ伯爵の従者が負う苦労を、毛ほども分かっていなかったのだ。

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