憂鬱症の伯爵
伯爵は舞踏会の夜、城の寝台の上で目を開けて、眼前に広がる天蓋を見て、何が起きたか理解した。その後彼は自室に篭り、ベッドの上から動かず、服も夜着から着替えずに陰鬱な日々を過ごしていた。ジーナが小姓になってからはしばらくの間、めずらしく元気だった伯爵が再び塞ぎこんでしまい、執事たちは頭を抱えている。伯爵はそんな使用人や家臣の姿を眺めながら、罪悪感と義務感から必要な書類にだけ目を通し、印を押すことだけはしていたが、それ以外は何もやる気がでなかった。そして、自分は判を押すしか能のない伯爵なのだと、さらに落ち込むことを繰り返していた。
紙の上の字を辿るのに疲れた伯爵は、顔を上げ、暦は春だというに、降り積もる雪を眺める。
この深雪の向こうで、領民たちが働き、汗を流し、互いを慈しみ、愛し合っている光景を彼は想像した。寂れた城で暮らす伯爵は、温もりに包まれ、手を動かすこともなく生きていることに後ろめたさを感じている。村人の世界は彼にとって異世界に等しかった。ジーナの語る平民の暮らしの話は、子供のころ、眠る前に聞いた昔話のようだった。伯爵自身は城に引き篭もり、窓から見える領民たちに声をかけたことも久しくなかったのだ。
昼も心が晴れない伯爵は夜も、小姓と男爵が交わりあい、小姓に触れることもできない伯爵が笑われる夢を見て、満足に眠ることもできなかった。伯爵は、小姓と男爵を汚らわしいと感じる自分も、男爵に劣る自分も許せず、雪に溶けて消えたいと思った。もっとも、彼がいくら苦悩していたとしても、傍から見て、怠惰な貴族と同じ生活を送っているのに変わりはなかったのだが。
伯爵のメランコリックが始まって7日が経とうかという時のこと。世界の終末を一人待つ彼の世話をしていた少女は、遂に男爵の噂について彼に問うた。それは伯爵の不甲斐なさに愛想を尽かし、発破をかけようとしたわけではない。
伯爵は、自室に篭りながらも最低限のことはこなし、村人の諍いについて執事に相談された時はひどく自信なさげに吃りながらではあったが、適切な処置を下させていた。それだけで、昔の先代伯爵達の所業を聞いていたジーナにとっては、伯爵は怠惰でも良き領主だった。それに、少女は平民で居候の自分が伯爵の世話をするのは当然だと思っていた。気まぐれで理不尽な自然と領主に耐えてきた農民の期待値は、限りなく低かったのだ。
ジーナが何故今になって聞いたかといえば、7日経てば伯爵に与える衝撃が小さいと考えたからだ。よく言えば無害、悪く言えば御し易い伯爵に心臓麻痺で死なれ、何処ぞの傲慢な貴族やコザークが領主の座に就くことは彼女にとって避けたいことだった。加えて、衣食住を提供してくれる主人への情も小さじ一杯程あった。
「ああ……噂に関しては聞いているよ。」
毛布に包まって芋虫のような体勢で話を聞いていた伯爵は、顔だけ毛布から覗かせ、ジーナの予想外の返事を返した。
「私は男爵を信じたいが、こうも不幸が続くとね……けれど、彼は…エリクは私が何を言っても男爵の下は去らないだろう。」
伯爵は灰色の目を伏せ、深いため息をついた。伯爵は噂を知っていて事態を放置しており、それがまた毎晩彼を悩ませていたのだ。
伯爵はそのまま話し続ける。
「男爵を一瞬疑ってしまうこともあるんだ。だけど、それは私が彼に嫉妬しているからだろう。」
伯爵にとって、愛人を寝とったとしても、男爵は城を訪れる唯一の友人だった。魂が純粋な伯爵は、友人を疑う自分の罪深さに怯えていた。
しかし、伯爵と違い男爵に何の情もないジーナにとっては、彼は全く疑わしい人物である。
「四人も彼の傍にいた人が亡くなれば、誰もが男爵を疑いませんか。彼をよく知らない私から見ても、男爵は危険な人物に見えます。貴方の恋人を奪いながら、胡散臭い笑顔を浮かべて、平然と友人のように振る舞っている。」
少女は抑揚のない声で淡々と述べた。伯爵は、恋人という単語を耳にすると悲しげな顔をし、枕に顔を埋めて呟く。
「エリクのことは……私が悪いんだ。私が、彼の望むものを与えられなかったから。」
(貴族の息子には、この城での豊かな生活だけでは報酬は不十分なのか)
エリクという少年は貴族だと聞いていたジーナは、疑問に思って思案を巡らせたところで、舞踏会で伯爵が倒れる前にジーナも目にした、妖艶な少年と男爵のやり取りを思い出す。
(なるほど、あの行為を差しているのか)
察しの良いジーナには、伯爵が与えられなかったものが何なのかわかってしまい、少し彼に同情した。彼女は伯爵の過去は知らないので、潔癖症程度にしかこの時は思っていなかったが。
しかし、つい考えにふけ、無言でいたジーナにその通りお前が悪いのだと責められた気になったのか、自分でまた思い出して切なくなったのか、枕から顔を離さない伯爵は、ジーナが考えを巡らせている間、かすかに嗚咽を漏らして涙を流していた。伯爵の声に気付いたジーナは、めそめそと泣く自分より一回り以上は年上の男を慰めようと試みる。
「だからといって……男爵があなたの友人であるなら、エリクに誘惑されたとしても……憚かるのでは?酒場でそのように男性たちが話すのを聞いたことがあります。貴族でも、下手をすれば決闘沙汰ではないのですか?」
しかし毎日の耕作や釣りに忙しく、周りに伯爵のような繊細な心の持ち主がいなかったジーナは、上手な慰め方を知らなかった。そして伯爵は、さらに彼女の言わんとすることを曲解し、また嘆く。
「ああ…決闘もしない臆病者は、寝取られて当然なのだ。」
「伯爵様が命を賭けては皆が困る。貴方ほど慈悲深き領主は他にいない。貴方は領民になくてはならない存在です。問題は、自分よりも身分が高い貴方にそれだけのことをしている、男爵のあの態度なのです。」
「私は、別に彼の身分は気にしていないよ…。」
貴族社会の不文律や化かし合い、駆け引きが苦手な伯爵は、普通の「友人」として気軽に接してくる男爵に惹かれ、友情を結んだのだ。友人に上下関係はない、という男爵の言葉通り、伯爵は彼を対等な者と思っていた。ジーナや周囲には無礼と思われかねない男爵の気さくさは、伯爵にとっては救いだったのだ。人付き合いを幼少期以来ろくにせず、臣下に囲まれていた伯爵に、真実の友情と利益のための友情の違いを見抜くことができるはずもなかった。
貧しい平民で村外れに暮らしていたジーナも、ろくな友人はいなく、社交界の経験もないので、男爵と伯爵の友情が本物か断言する自信はない。ただ、彼女はとにかく本能的に、男爵が限りなく疑わしいと感じていた。
「私は正直言って、男爵が好色で殺人欲求のある異常者でも、伯爵様に危害が及ばない限りは構いません。しかし、彼が男爵に殺されでもした時、優しい伯爵様がどうなってしまうのかが心配です。」
埒があかないと思ったジーナは、無表情で伯爵、イヴァンの枕元に近寄り、しっかりとした口調で自分の懸念を伝える。伯爵は枕から顔を上げ、ジーナの方を見た。強い意志を持つ彼女の鷲色の瞳を、伯爵は真正面から見つめられなかった。
「エリクを男爵が殺すなんて想像は、やめてくれ、…やはりきっと、あの陽気な彼が殺人を繰り返しているなど、ありえないよ。」
「それこそ、優しいあなたが…ご友人を信じたいからです。」
伯爵の目が泳ぐ。男爵と同じように友人だと思っていた少女が、彼を疑えという。伯爵のか弱い心臓には、十分すぎる負担だった。
「……ジーナ、もう、下がってくれ………」
耐えきれなくなった伯爵は、弱々しくジーナを手で押して遠ざけ、再びベッドに突っ伏した。
「…出すぎたことを言いました。申し訳ありません。お言葉通りに。」
ジーナは表情を変えず、おとなしくベッドから離れた。そして、扉を開ける前に伯爵の方へと向き直り、
「……しかし、男爵にはくれぐれもお気をつけください。…良い夢を。」
と一言残し、去った。羽毛の下で震える伯爵が見るのは、悪夢に決まっていた。