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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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永遠の記憶

2章終わり。もしかしたら閑話。

グレゴールの家に行った翌朝、伯爵はジーナに暇を出そうとしたが、ジーナは部屋にいなかった。何かあったかと気が気でない伯爵は従者を探し回ったが、老メイドに袖を引かれて庭に出てみると、元気に薪を割るジーナがいた。主人よりも早く目覚めたジーナは朝から精力的に働いていたのだ。


伯爵は一日中ジーナの心中を憚って気を揉んでいたが、ジーナは何事もなかったかのように働き、いつも以上に城中の手伝いをし、文字と算術を学んだ。伯爵は邪魔をするわけにもいかずジーナの周りを右往左往し、村以外の領地に関する書類は伯爵の文机に山積みになったままだった。


夜、夕食を終えたあと、伯爵の自室に紅茶を運んできたジーナに、ようやく伯爵はまともに話しかけることができた。


「あの、お兄さんの、イーゴリの手紙、上質紙に写しておいたよ」


「…ありがとうございます。」


ジーナは伯爵が見せた紙束を見て驚く。伯爵の綺麗な筆記体で、高級そうなインクで、兄の言葉が白い紙の上に書かれていた。まさかイーゴリも自分の手紙が貴族に写されるとは思わなかったろう、とジーナは口元をわずかに綻ばせた。その様子に安堵した伯爵がマーブルの表紙もつけた本にしようと思うと言い出したので、ジーナは手紙らしい形態のままが良いと止めた。


「もう…大丈夫なのかい?」


ジーナにも紅茶を勧めた伯爵は、ちらちらと窓の外とジーナの方に視線を彷徨わせながら問いかけた。


(どういう意味だ?)


ジーナは思わずそう言いかけたが、伯爵の落ち着かない様子から、昨日自分が泣いたせいで心配しているのかと思い当たる。


「ええ。今まで貯めていたものは、昨日流し切れたので、すっきりしました。…イヴァン様のおかげです。」


そう言うジーナはケロッとしていて、普段通りの無表情に戻っている。涙の跡もなく、どちらかと言えばイーゴリと他人の伯爵の目元の方が赤かった。変わったことといえば、ジーナが伯爵を見る眼差しが少し暖かかくなり、名前で呼ぶことが増えていたのだが、伯爵はあまり気に留めなかった。伯爵はそれよりも、弱みを見せないジーナのことだから、自分に心配させないために気丈に振る舞っているだけなのではないかという懸念に気を囚われていた。


「ずっと逃げていたイーゴリの死と、イーゴリとあの時の自分の想いに、向き合うことができた」


ジーナは伯爵の目を見て、よく耳を通る声で話す。伯爵は手元のイーゴリの手紙の写しを見ながら、考えた。


(私も領主として、一人の若い領民の死に向き合わなければいけない。)


そして、昨日から考えていたことを、ジーナに相談する。


「イーゴリの、パニヒダ(死者への祈り)を教会でやろうと思うのだけれど…。埋葬式もしなかったと聞いたから。ご家族と、話を聞いた村の人だけで…。もちろん、ジーナが良いと思えばの話だ」


「しかし、パニヒダは…」


伯爵の思いもよらぬ提案に、ジーナは答えに困った。通常、自殺者のためにパニヒダを行うことは許されない。伯爵は何を考えているのかと、ジーナは無言で疑問を示す。


「私は、イーゴリが自分の意志で神に背いたとは思わない…。それに、その…こんなことを言うのもよくないけれど…、誰も、証明できないだろう?」


伯爵の言葉に、信心深そうな割に意外に不信心だなとジーナは思ったが、口には出さなかった。伯爵は常に神からの罰や地獄を恐れているが、その実西の啓蒙家に影響されて教義に懐疑的なところもあり、伯爵の書棚には地下出版の禁書も並んでいるのだ。禁書目録も知らないジーナはまだ気づいていなかったが。


(確かに、死因と死体がないせいで、イーゴリにはろくな埋葬式もしてやれなかった。イーゴリは、手紙で、自分が死後は村の皆から忘れ去られていると思っていたな…。)


ジーナは伯爵より純粋に教会の教義を聞いていたが、死者への祈りなどの行為にあまり意味を感じていなかった。死後の世界はあると信じていても、生身の自分が生きる此岸以外に興味がないのだ。しかし、パニヒダを通じて、兄の記憶を皆に遺し、自分自身と兄への赦しを神に乞いたい気持ちもあった。


(もしイーゴリの魂があるなら、地獄が存在するなら、祈っておいた方がいいだろう。前に旅人が、西では金や祈りによって地獄から救われる死者もいると言っていたし。)


ジーナは教派の違いは、気にしていなかった。


「父と母が来るかは分かりませんが…、ムハイロやゾーヤと、村の皆を呼んで、イーゴリへの祈りを、捧げたい」


「そうか…、では、来週の土曜日に行おう」




パニヒダの日は、夏を予感させる晴天だった。マリヤとその家族、グレゴール、イーゴリを襲ったヴヴークをはじめ、話を聞いた村人が30人ほど集まっていた。思っていたより多い人数に、ジーナは驚いた。


(祭に参加したくて来たのか?煮た麦くらいしか出ないけど)


村人は皆一張羅を着ていて、ジーナには蝋燭と聖画が並んだ教会の中がきらびやかな空間に見えた。


(自殺者…のパニヒダだというのに。)


非公式にやるのかとジーナは思っていたが、伯爵が執り行う式のため、司祭も補祭もいた。

一方、厶ハイロとゾーヤもいつもに比べれば小綺麗な格好で、伯爵の兵士に連れられて来ていたが、ジーナの予想通り、両親の姿はなかった。母親は窓の外から空の棺を見つめていたが、ジーナが知る由もなかった。


落ち着いた正装をした、落ち着かない伯爵がしばらく姿を消していたが、領主が戻ってきたところで祈りが始まった。





「罪の赦しを…得るために…」


延々と続く連祷にジーナは意識を飛ばしていたが、隣からゾーヤはまだしもムハイロの寝息が聞こえてきたので、背中を叩いて起こす。


「招かれた村の人や小さいゾーヤならいいが、お前は寝るな。イヴァン様の顔を潰すことになる。」


離れた席に座る伯爵に聞こえないよう、ジーナはムハイロの耳に囁く。


「俺だって子供なのに…。それに、俺が生まれる前に死んじゃったからイーゴリ兄さんのこと、知らないし。」


軽はずみに言ったムハイロは、ジーナの顔を見て、イーゴリと同じ蒼い目を見張った。


「どうしたんだ」


「…ごめん。ジーナは、悲しいよね」


子供ながらに気を遣って申し訳なさそうに謝る弟に、今、自分は悲しそうに見えたのかとジーナは首を傾げた。


「悲しい…。そうだな。悲しいよ。いい兄さんだったから。お前も知ってたら、そう思ったさ。」


「うん…。…イーゴリは、どんな人だったの?」


坦々と話すジーナに、表情豊かな弟は身を乗り出して問いかける。


「前も話したけど…働き者で…無口で、好きな女の子に弱くて…」


長々と続く祈りの言葉の中、ジーナはもういない兄の思い出をムハイロに語り続けた。ムハイロは覚えていない祈祷文よりも興味深げに、姉の言葉に耳を傾けていた。伯爵は兄妹が祈りを唱えず別の話をし、その隣の小さな妹が寝息を立てているのにも気がついていたが、ただ暖かく見守っていた。途中から村人の中でもちらほら話し声が聞こえたが、伯爵はただ司祭と共に粛々と祈りの言葉を唱えた。イーゴリが神に背いていたとしても、赦されることを祈って。そしてそれは、伯爵自身の痛悔でもあった。





「今日はありがとう。私が皆に願うことは、ふたつ。イーゴリを、兄を覚えていてください。そして、健やかな日々を。」


最後の聖歌の前に、ジーナは手短に、村人に対して語った。もちろんさ、とマリヤが涙を拭いながら返す。感情が豊かな人だとジーナは思った。村人は皆頷いていたが、ジーナはイーゴリのことを何年先も皆が鮮明に覚えているとは思わなかった。


(そんなことは無理だ。いずれ、人の記憶は薄れていく。今だって。)


それでもいいとジーナは思っている。イーゴリは頭の片隅に覚えていて欲しいとジーナに手紙で書いていたが、イーゴリが生きていた事実だけでも、この世に遺ればそれでいいとジーナは考えた。


(だから、今日みたいに記憶に残る形で集まることに、意味があるんだ。)


ジーナは、伯爵がパニヒダを行いたがっていた理由をようやく理解した。




埋葬式も同時に執り行ったため、ジーナたちはあの木箱を納めた棺を埋め直し、墓石を綺麗にした。そして、村人やムハイロたちとともに、ジーナと伯爵は祈りを唱える。イーゴリがどの様な形でこの世を去ったとしても、神に忘れ去られないように。永遠の命を、神に与えられるように。そして此岸に、彼の記憶が生き続けるように。


永遠の(ヴィチュナヤ)思い出(パーミャチ)!!」


伯爵や村人が一斉に叫ぶ。


(ありがとう、イーゴリ。いつまでも、記憶は傍らに。)


ジーナは、夕暮れの中光る星々の下、どこかにいる兄に向けて、感謝の言葉を送った。

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