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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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イーゴリの背中

ジーナは青年の一言と、曇った翠眼をよく見て、ようやく思い出した。


(あの春、イーゴリを襲った奴らの一人か。)


確かにその時、ジーナの腹の底で薄暗い感情が燻った。しかし、憎しみのようなものはジーナの心からつむじ風のように、またたく間に過ぎ去る。ジーナは青年の顔を今の今まで忘れていた程、兄を痛めつけた連中に全く関心がなかった。

彼らのせいで兄が死んだはずはない。


(彼らの暴力など、私たち家族がずっとイーゴリを苦しめていたことに比べたら、一瞬のことじゃないか)


「兄はあなたのせいで死んだわけではありません。どうか兄のことは忘れて、幸福に暮らしてください。」


ジーナは立ち去ろうとするが、その肩を青年が掴む。振り切ろうとしても、離すまいと力を入れてくる。ジーナが足払いでもしようかと振り返った時、切実な青年の表情に気づいた。


「待ってくれ、俺は、俺は…」


ジーナは凪いだ湖面のように静かな目で動転している青年を見つめる。家族である自分よりも他人の青年の方が、イーゴリの死に囚われ、泣きそうに見えた。


彼はイーゴリの妹に謝罪をすることで、免罪符を得たいのだ。どうやらその免罪符は、赦しではなく弾劾されることで得られるようだった。


なんと図々しい罪人だろう!


ある人はそう言うかもしれないが、ジーナは悲痛な表情の青年を見ても、怒りも呆れもしなかった。


ジーナは淡々とした声で言った。


「イーゴリは貴方に殴られて、蹴られて、あざができたところで、骨が折れたところで、そんなことで死ぬやつじゃなかった。」


ジーナは有無を言わさぬ瞳で真っ直ぐに青年を見つめ、断言する。青年は、罪悪感と同情と後悔に眉を歪ませながら、少し掠れた声で返す。


「それなら、何で死んだんだよ……」


ジーナは口を真一文字に結んだまま、何も答えられなかった。ジーナも何度も考えた問いだ。黙るジーナから視線を逸らさず、青年は続ける。


「俺はイーゴリにあんなことしたし、友達じゃなかったが、歳も近いから、子供の時から知ってたぜ。だからイーゴリが頑丈なことも、真面目で働き者なこともわかってた。でも、イーゴリを痛めつけたときは、あいつが憎くて、はけ口が欲しくて仕方なかった。最低な男だったんだ。後から罪悪感でいっぱいになって、謝ろうとあいつの周りをウロウロしたけど、結局、見下される気がして、怖くて謝れなかった。許されないとしても、せめて一言、神じゃなくあいつに言うべきだったのに。」


「イーゴリのやつ、いなくなるちょっと前からおかしかっただろ。俺らが負わせた怪我が治っても、鋤を振るう手に力が入ってないし、いつも遠くを見てた。あいつは頑丈で、俺たちなんかよりよっぽど、心も身体も強かったけど、だからって、こわれないわけじゃなかったんだ。誰かあいつに、大丈夫かって、聞いてやらないといけなかったんだ。なのに、俺がしたことは、俺は、あいつをもっと傷つけただけだった。」


風に吹かれ、木の葉がそよぐ音だけが聞こえる。ジーナは何も言わず、青年の言葉を聞いている。ジーナは青年の答えを正解だとは思っていない。しかし当時の幼い自分より、年の近い青年の方がイーゴリと同じ目線で物事を見ていて、何か真実に近いものを見ていたのかもしれないと思ったジーナは青年に耳を傾けることを選んだ。


「俺、なんとなくあいつの気持ちがわかる気がするんだ。先が見えない中でよ、毎日毎日畑耕して、明日も明後日もなにか良くなるわけでもない。それどころか悪くなっていって、自分じゃどうしようもない、生きたいって気持ちも鈍っていって…。」


青年はそう言って、うつむいた。ジーナは、青年から視線を移し、薄曇りの空を見上げる。青年の言葉は、ジーナの推察を凡そ支えるものだった。


「生きたくない」、いつもこの世のことを考えているジーナには理解できない感情だった。ひもじかろうと、辛かろうと、泥水をすすってもジーナはこの世の生を享受したいと考えている。目の前の青年だって、今もそんな想いを抱えながら生きていることを、ジーナは感じていた。イーゴリも、頑健だった兄も、同じだと思っていた。


(でもイーゴリは、どこかで此岸への執着を失ったから、湖に消えたんだ。)


ジーナはずっと、イーゴリを強い人間だったと思っていたが、その強さとは別に、兄の弱さを考えなければ、辻褄が合わなかった。

イーゴリが伯爵のような陰鬱を抱えるのか、ジーナは疑問に思ったこともある。しかし死ぬ少し前から、勤勉な兄が何もしないで、遠くを見ていることが増えていたことを思い出すと、青年が言う通り、兄が何か変わったことは、否定できなかった。


だからジーナは、家族、ひいては自分が兄の死の原因だという結論に至ったのだ。目の前で詫び続ける青年は、彼自身に責任を帰しているのだが。




ジーナは目を閉じて、自問自答した。


(私は何を求めていたのだろう。イーゴリの死が誰か他人のせいであれば、自分が十字架から解放されると思ったのか。いや、違う。イーゴリの死は、この人のせいでも、きっと村の誰のせいでもない。)

(じゃあ、私は何のために、もういない兄のことを聞きまわっている?)


いつも決めたことを遂行するジーナは、主と真逆で余り後悔をしない。しかしイーゴリのことだけは、今ばかりは、当て所ない後悔に襲われていた。あの夜、人知れず命を断ったイーゴリの最期を、静かな湖面が想像させる。


(馬鹿だ、私は。どれだけ悔やんでも、イーゴリは死んだ。湖の底、いや、天上に行ってしまったのだ。これから何をしても、生き返らない。)


それなのに、ジーナはこの頃、どうすればイーゴリは死ななかったのかということばかり考えてしまう。


(自分のことはどうでもいいから、彼女のところでもどこでも、行きたい処に行けと、村を出させればよかった。村人に頭を下げて、イーゴリの代わりに働いてくれと頼めばよかった。)


(あの頃は村を出るなんて夢物語で、今歩む轍とは違う道を考えもしなかった。幽霊領主は非力で狭量な人物だと思ってあてにしていなかった。)


(今イーゴリが生きていても、苦しんでいたかもしれない。あの子とは会えないままで、どこにも行けないままで。)


(それでも、生きてさえいてくれたら、春はまた巡って来たのに。)


今更何をしてもイーゴリが蘇るわけはない。それでもなぜか、兄の広い背中を追って、ジーナは村中を周り続けている。



何も言わなくなってしまったジーナに拒絶されたと思った青年は、沈痛な表情で彼女に声をかけた。


「いきなり、すまなかった…。イーゴリの弟だと分かって、どうしても……。俺にできることがあるなら、手伝わせてほしい。誰か村人を探しているのなら、俺も探そう。」


「…ご親切に、ありがとうございます。でも、手伝っていただく必要はありません。あなたは…ただ、生きて、兄のことを覚えていてください。」


ジーナは溢れてきた己の感情の整理に忙しく、青年のことを考える余裕がなかった。しかし青年への言葉は、紛れなくジーナの願いであり、イーゴリの願いだと、ジーナが信じているものだ。


「そうか…。……ありがとう。イーゴリのことも、お前のことも、忘れないさ。本当に、何か困っていることがあったら、言ってくれ。赦してもらうために言ってるんじゃなくて……。俺以外の村人だって、きっと、お前のことを助けたいはずだ。」


ジーナは毅然としているつもりで、実際彼女の表情筋はほぼ動いていなかったが、青年にはその瞳が潤んで見えた。彼はあの日、兄の死を村人に告げて消えた、小さな背中が忘れられなかった。


青年の言葉を聞いたジーナは瞳を丸くした。正直なところ、昔はともかく、今伯爵の城に住ませてもらっている自分が、村人に同情されるような暮らしをしているとは思わなかったのだ。それなのに、昔、貧しい自分たちを妬んだ村人が、衣食住に満足している自分に手を差し伸べようとしている。不思議な話だ。


そうは思えど、ジーナは、彼女には身勝手にも思えた青年の手を振り払うことはしなかった。


「ありがとう。本当に助けてほしいときは、言うよ。」


イーゴリの広い背中は、一人では支えられなかったのだ。伯爵の狭い背中だって、一人では支えられないかもしれない。今度は何をしてでも、支え切らなければならない。

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