イーゴリの手紙
長め、直すかも(いつも)
最後の村人の名前は、グレゴール、と言った。この村人については、珍しく姓名が記されている。シャウチェーク・グレゴール・セルギエンコ。ジーナには聞き覚えがある気もしたが、思い出せなかった。
「何か…分かるといいけれど」
「死人に口はないんです。元々兄以外に、兄が死を選んだ理由がわかるはずもない。…皆が兄を覚えていることがわかっただけで、いいんです。」
道中、当然のようについてきた伯爵は、ジーナの諦観した様子に何も言えず、勝手に意気消沈していた。
グレゴールは四十ほどの中年男性で、ジーナには見覚えのない顔だった。
「私の従者が、あなたに用があって。」
不気味な伯爵が突然訪ねてきたにも関わらず、グレゴールはジーナの顔をしばらく見つめると、躊躇いなく二人を家の中に招き入れた。
「君は…そうか。イーゴリの妹か。少し待ってくれ、」
グレゴールはそう言い残し、廊下の奥に消えた。
(妹…)
ジーナは男装した自分をイーゴリの妹と直ぐに言い当てたグレゴールに驚く。それに、今までの村人はそもそもジーナをイーゴリの弟だと思っていた。グレゴールは昔からジーナがイーゴリの妹だと知っていたのだ。
(あんな人、イーゴリの友人にでもいたか?)
ジーナが疑問を抱いていると、グレゴールが小さな箱を持って戻ってきた。
「父が遺した木箱だ。遺言に、イーゴリの家族が来たら渡せと書いてあった。」
グレゴールがジーナに渡した粗末な木箱は木片を操作しないと開かない仕掛けだったが、ジーナは簡単なパズルを難なく解いた。一体何が入っているのかと、伯爵は固唾をのんで見守る。ジーナは躊躇うことなく、木箱の蓋を開ける。
「手紙…?」
中には、ボロボロの、質の悪い紙が入っていた。それと、もう一通はそれなりの質の紙で、こちらは封がされている。
「こっちはあの人からイーゴリへの手紙だ。」
「大河の向こうの、異民族の字だな…」
伯爵は思わず興味深げに彼女からの手紙を眺める。綺麗な筆跡だが、伯爵にも読めない、見慣れない字だ。
「ということは、そちらは…」
「イーゴリの字です。」
不安定な線で書かれた字は、イーゴリがサインした時の筆跡と同じだった。手紙の最後まで目を滑らせると、イーゴリの署名がある。冒頭には、ジーナの名があった。ジーナはドクドクと自分の心臓の鼓動が波打ち始めるのを感じた。
(間違いない。イーゴリが、私に遺した手紙だ。)
朧気な記憶を辿って書いたらしい文字は読みにくく、発音通りに書いているのか、単語の綴りは間違っていて、文法もおかしかった。それでも、ジーナには読むことができた。イーゴリの、無骨な話し方そのままの文章だったからだ。
「ジーナ、俺の妹へ…」
ジーナは人差し指でたどたどしい文字をなぞりながら、イーゴリの声を聞くように、手紙の内容を読み上げ始めた。伯爵とグレゴールはじっと黙ってジーナの平坦な声に耳を澄ませる。
「この手紙を読む頃には、お前は何歳だろうか。もう男…には勘違いされないか。」
伯爵は少し気まずげに、目を伏せた。
「それくらいの歳まで、俺が生きて…いればいいが…。…この手紙は、死んでしまった兄さんを思い出して、書いた。兄さんが死んだとき、俺はもっと兄さんに言葉を遺して欲しかったから。」
「兄さんは、立派な人になれたはずだが、早く死んでしまった。だから、ほとんど誰も、兄さんのことを覚えていない。だから、お前には自分に何人も兄や姉がいたことを覚えていて欲しい…。顔も知らないのに、難しいだろうが…。それに、俺のことも。」
「お前がこれを読んでいるなら、きっと何でか俺は死んじまったんだな。……ごめん。生まれた弟はまだ元気か?父さんと母さんは、ずっと喧嘩してるんだろう。」
「でもそれは、少なくともお前が俺より長生きしたってことだから、俺は嬉しい…。」
無表情なジーナの眉が、少し動いた。
「ちょっとだけ俺が知っていることを別の紙に書いたから、それを見てくれ」
別の紙束には、農作物の育て方や刈り取りのコツなどが書いてあるようだったが、かなり読み取りにくい字だった。
(書き直して取っておこう。それにしても、私は文字を読めなかったのに。誰かに読んでもらえると思ったんだろうか。)
「お前は兄さんに似て覚えがいいから、もしかしたら小作人以外にもなれるかもしれない…もうなってるか?」
「正直お前が誰かの妻になってる想像ができないけど、いい人はいるのか?もう夫や子供がいるか?優しい人か?もし、暴力なんか振るわれて、どうしても辛かったら、教会にでもなんでも駆込め。村の人に、助けてって言ってみろ。お前は、俺に似て顔に出ないから。」
(イーゴリは、私が結婚するぐらいの歳まで、自分は生きていると思っていたんだな。)
今のジーナの歳でも結婚する村人はいるが、イーゴリはその随分前に死んでしまった。そして、妹を案じる兄の言葉は、やはりイーゴリは苦しんでいたという確信をジーナに与える。
「俺は今も、伝えなくて後悔したことがたくさんある。思ったことは、特に大切な人には、ちゃんと伝えろ……。」
イーゴリが誰のことを言っているのか、ジーナにはすぐわかった。
(彼女が行ってしまったあとに書いたんだ。あの頃のイーゴリはとても落ち込んでみえたが、まだ…)
ジーナが兄の死の原因を探すあまり、イーゴリの助言はジーナの頭に入らなかった。それに何よりジーナが伝えなくて後悔した相手は、イーゴリだった。
「あんまり役に立つことが言えなくて、悪い。俺は情けない兄かもしれないが…俺は、お前が小さい癖に手伝ってくれたおかげで、本当に助かったよ。」
しかし、イーゴリが、イーゴリの知らない未来のジーナではなく、手紙を書いた時のジーナについて語り始めたところで、ジーナは兄の言葉を真正面からぶつけられた気がした。ジーナがずっと知りたかった、イーゴリの気持ちが書いてある。
「地べたを這いずりまわってたお前が、すぐに言葉を話し始めて、畑仕事や釣りをはじめるのは驚いたし、面白かった、」
ジーナは先を読みすすめるのが恐ろしくなった。伯爵はジーナの肩が震えているのに気づき、オロオロとしながら代わりに読もうかと声をかけたが、ジーナは頭を振った。
「今日まで俺が生きてきたのは、お前のおかげだ。ありがとう、ジーナ」
ジーナは自分の目を疑った。しかし、何度読み返しても、手紙には拙い字で兄から自分への感謝の言葉が書いてある。
(何言ってるんだ、私こそ、イーゴリのおかげで生きてこれたんだ。イーゴリがいなきゃ、伯爵様の城で温かい布団にくるまることなんてなかった。でも、イーゴリが私に感謝することなんて、)
幼い妹に対する兄への想いを、ジーナがこの手紙だけで理解できることはなく、疑問は湧き上がるばかりだ。それでも、イーゴリの感謝の言葉を見た瞬間、ジーナは自分の中で堰が切れた気がした。
(目頭が、熱い。何だろう。)
「俺がいなくても、お前が今より幸せであることを心から願ってる。幸せの中で、俺たちのことを、匙一杯くらい、覚えていてくれたら嬉しい。でもそれより、お前が貧乏暮らしなんて忘れるくらいの幸福を得たなら、それ以上のことはない。」
ジーナには、イーゴリがいた貧しい頃と、伯爵の従者として豊かな暮らしを享受する今と、どちらが幸せかなど分からなかった。ジーナには腹を空かせる毎日に戻る気はさらさらなく、ジーナがあの頃を恋しいと思うこともない。しかし、今もイーゴリのことも彼女のことも覚えている。
(第一、イーゴリの幸せは、どうなんだ。)
「お前は大切な人をつくって、皆の記憶に遺る人生を、歩め。お前は俺より、もっともっと先に行ける。」
(私のことばかりじゃないか。イーゴリだって、村の皆が今でも語ってくれるくらい、記憶に遺っているのに。)
ジーナは、文面全体に現れている、兄の自分を卑下する様子に少し腹がたった。しかし、もうこの世にいない兄には、何の言葉もかけられない。そして、兄から妹へ遺された言葉も、あと僅かだ。
(あと一行しかない。)
視界が霞んで来るのを感じたジーナは、冷静になろうと、目を閉じ、深く息を吸って吐き、真っ直ぐと兄の最後の言葉を見つめ、読み上げる。
「さようなら。愛を込めて。イーゴリ。」
いつも揺るぎないジーナの声は、震えていた。
「分からないよ…イーゴリ。」
ジーナは、イーゴリが考えていたことを、知りたかった。自分が疎ましかったか、重荷だったか。手紙はその疑問に答えていたが、ジーナは納得できなかった。
(嘘だ、こんなのは。どうして?イーゴリが私を愛していたなら、何で先に死んだんだ!この手紙を書いたとき、イーゴリは明日も、ジーナたちのために働いて、生きる気だったのか?彼女のいない人生を、重荷に耐える人生を!)
いつも凪いだジーナの心の中で、大きな荒波が生まれていた。耐え切れずにジーナは兄への届かない言葉を宙に投げる。
「どうして…」
ジーナの呟きを聞き取った伯爵は既に目尻から溢れている涙を拭って、視界を取り戻す。そして息を飲んだ。
ジーナが、涙を流している。
恐らく物心ついて初めて、ジーナは涙を零した。嗚咽も漏らさず、ただ手紙を見るジーナの目からは、とめどなく涙が溢れている。イーゴリが死んでからジーナの心に積もり続けた雪が、今頃解けて、全て流れ出ているようだった。
「ジーナ」
一人で静かに泣き続ける少女をただ見ていることができず、かといってはらはらとこぼれ落ちる涙を拭ってやることもできず、伯爵は震える手を彷徨わせた結果、ジーナの小さな肩に置いた。
「イヴァン様」
ジーナは、伯爵に涙を見せないように、顔をそらしながらも、温もりを求め、冷たい伯爵の手に、温かい手を重ねる。
「兄は…、イーゴリは………。生きようと、していたんでしょうか。」
「そうだね…。愛する、妹のために。」
(愛!耳障りのいい言葉だ。そのためにイーゴリが自分を傷つけて死んだなら、愛なんて害でしかない。こんな手紙、真実イーゴリの気持ちかどうか分からない。)
そうは思えど、哀しみや嬉しさや憤りやらに押し流され、ジーナの涙は止まらなかった。心の中で溢れかえるものを吐き出して涙を止めようと、ジーナはぼやけた視界の中でイーゴリの手紙を見つめながら、伯爵に取り留めのない想いを語る。
「イーゴリが生きていたら、…あの子を探して、見つけたら、3人で…海に行きたかった。」
「うん。」
「ムハイロや、ゾーヤの遊び相手になってほしかった。」
「ああ。」
「イヴァン様にも…。イーゴリなら、きっとお役に立てるはずですから。」
「ぜひ、雇いたいな。」
伯爵は真剣だった。
「そんな、詮無きことが、頭に浮かんで仕方ありません。どうしようも、ないことなのに。有り得ないことを考えて、イーゴリに怒りまで抱く、自分が愚かしい。」
伯爵にはイーゴリを蘇らせることもできないし、イーゴリが死んだ理由も見つけられない。伯爵は、いつも強く生き、自分を助ける少女が流す涙を止められない無力さを感じた。ジーナにかける言葉を探して、伯爵は、伯爵の思うジーナの心を代弁する。
「お兄さんのことが…大切で、忘れられないんだね。」
伯爵の言葉に、ジーナはっとする。
(あの少年が言っていた愛とは、こんな感情を形容するものだろうか。)
ジーナは昔から、ただそんな星の下に生まれたから、兄は仕方なく自分たちの面倒を見ていたと思っていた。今でもジーナは、イーゴリが自分のために働いたのは責任感故だと考えている。それでも、少なくともジーナ自身は、イーゴリに今でも生きて欲しいと願うくらい、兄を大切に想っていることに、気がついた。
「はい……。イーゴリは、自慢の兄ですから。」
(もし、私がイーゴリを愛することができているなら、それは、イーゴリが彼女を愛するように、私たちのことも愛してくれたから…。)
そう考えると、ジーナはイーゴリが自分を愛していた、ということを受け入れられる気がした。誰より兄の近くにいた時より、兄を失った今になって、ジーナは兄の心と、兄への自分の想いを知れたのだ。
(この人のおかげだ。)
ジーナは伯爵にお礼を言おうと思ったが、喉が熱くて声が出せないので、後回しにした。伯爵はそのまま、ジーナの涙が止まるのを待っていた。
沈黙のあと、泣き止んだジーナは、見苦しいところを見せたと平常通りに振る舞っていた。しかし、グレゴールの家のソファに座らされ、毛布を掛けられ、温かい蜂蜜酒を飲まされると、疲労が出たのか、ジーナは幼子のように眠ってしまった。右半身にジーナの温もりを感じながら、愛らしい寝顔を見つめる伯爵は、ジーナが十五で背負ってきたものに心を痛め、そしてまだ子供に近い彼女に頼りきりな後ろめたさに、胸を傷ませた。
「父が、イーゴリと仲が良かったらしくて」
「そうだったのですね」
それから伯爵は、ジーナが眠る間、グレゴールから、セルギーという名の、今はなき彼の父の若い友人だったイーゴリの話を聞いた。等身大の青年の話を聞いて、伯爵は同い年頃の自分と比べて引け目を感じたり、あこがれを感じたりした。そして、ぶっきらぼうで働き者の、口下手な青年に興味を持つ。
「生きていたら、私と同じ年頃か。話してみたかったな。」
妹を男装させ、小姓として働かせているなど知られたら殴り殺されそうだが。
顔も見たことのない青年は、伯爵の記憶にも、自分を救う少女と引き合わせてくれた存在として記憶に残るのだった。
伯爵とグレゴールが談笑している間、ジーナは夢の中で、想像の小波の音の中で、海辺に佇む兄の姿を見た。そして何故か、砂浜に額を擦り付けて兄に詫びる伯爵の姿を。
あと1、2話でこの章は終わり。思ったより長かった…