イーゴリの墓
翌朝、伯爵とジーナは、肌寒い朝の空気の中、丘を登った。村から離れた小高い場所にある城の裏手を、さらに登った所に村人たちの墓場と教会がある。然程城から距離はないが、伯爵は少し登っただけでぜえぜえと息を吐き、ジーナは体力のない主に合わせてゆっくり歩き、時々その背中をさすった。やっと墓場についた後、息も絶え絶えな伯爵が落ち着くのを待って、二人はイーゴリの墓石を探した。幼い頃のジーナの曖昧な記憶だけが頼りだったが、不規則に見える墓石は基本的に居住区に従って並べられていることに伯爵が気が付いたので、二人はイーゴリ、そしてジーナの知らない他の子供たちの墓石にたどり着くことができた。
手入れのされていない、簡素な墓石には家名と子供たちの名前が刻まれている。青々とした緑の草に覆われた墓石に、僅かに積もる溶け残った雪を払い、伯爵は城の庭で摘んだ花を2本供える。伯爵が目を瞑って何か呟き始めたので、ジーナもそれに倣って目を瞑ってみた。
死体も引き上げられなかった兄の粗末な木製の棺の中身は空だ。兄には復活する身体もない。ジーナは毎日湖に来て、兄の死体が浮かぶのを待った。ある日、それらしき死体が岸から離れたところに浮かぶのをジーナは見つけた。腐敗が進んでいたが、わずかに残る髪の色も、身につけた服も、遠目でも兄のものだとわかった。しかし、到底幼い子供が一人で死体を岸辺まで持っていけるはずもなく、ジーナが村人を呼びに行く間、彼の亡骸はどこかへ流されてしまったのだ。ここへ来ても、ジーナの脳裏に浮かぶのは兄が消えた朝と、遠目に見た彼の死体ばかりだった。
謎の儀式を終えたらしい伯爵はジーナに向かって微笑むが、ジーナの表情は変わらなかった。伯爵はそれを深い悲しみのためだと考えた。その後、小腹も空いていたので、二人は墓地の外れにあるイーゴリたちの墓石の前で食事をとることにした。伯爵は火酒を開け、パンを頬張る。ジーナも老メイドの焼いたパンの味が好きだったので、よく食べた。美味しいパンを噛みながら、ジーナは毎日兄と共に城の竃にパンをもらいに行ったことや、兄が焦がれた女性の笑顔を思い出した。
「イーゴリ…お兄さんとはいつもどんな話を、していたんだい?」
伯爵は恐る恐る、ジーナに兄の思い出を聞く。伯爵が思うほど仲睦まじい兄妹ではなかったと思いながら、ジーナは淡々と答える。
「特に、何も…今日の夕飯のこととか、魚のこととか…」
「へえ…面白いなあ。私には、兄も妹もいないから…。」
伯爵がどこに面白さを見つけたのかジーナにはわからなかった。しかし伯爵はジーナに配慮しながらも、亡くなった兄や二人の日常を色々と聞いてきたので、ジーナは朧げな記憶を掘り出して答えなければならなかった。もうずっと兄のことは誰とも話さず、声も忘れてしまいそうだったのに、伯爵に受け答えしているうちに、ジーナは共に家に帰るときの兄の背中を、昨日のことのように鮮やかに見た。
「そろそろ片付けよう…うわ、」
食事を終え、片付け始めようと立ち上がった伯爵が墓石の前で躓く。
「これは、十字架…?もしかして誰かの、……。」
伯爵の足元には小さな木製の十字架が地面に刺さっていた。誰かの墓標を足蹴りにした可能性に思い当たった伯爵は血の気を引かせ、身分も忘れて十字架に向かって地面に頭を擦り付けて謝罪しようとしたのを、ジーナが汚れると言って止める。その時に伯爵は、十字架の下に木の板が墓石のように埋められ、表面に「掘れ」と書いているのに気が付いた。
「なんだろう、ジーナのご家族のものかい?」
「私は知りませんが………掘ってみましょうか。」
「ええっ、でも、他人の墓を掘るのは……骨や死体が出てくるかもしれないし……。」
好奇心のまま素直に掘ろうとするジーナに伯爵は首を振るが、擦れて一目で読めなかったその下の文字を見て顔色を変える。
「「ジーナ」へ…?」
「誰が書いたんだろう。イーゴリの字はもっとたどたどしかった。」
「…掘ってみよう。」
伯爵は城に道具を取りに行こうとしたが、身体に負担が大きく時間がかかると言われ、墓石の前で一人待つことになった。ジーナは伯爵だけ城で待つことを提案したが、伯爵も協力したいと言い張り、妥協の結果だった。ジーナの話を聞いた城で暇を持て余していた兵士もスコップと一緒に付いてきたが、結局ジーナが掘り出すことになった。伯爵の手を煩わせるわけにはいかないと兵士も一緒に掘ろうとしたが、ジーナ一人で簡単に掘り出せる位置に、丸い瓶が埋められていた。安物のために歪んだ硝子の中には、地図のような絵と、人名が書かれた紙が入っていた。




