伯爵の赦し
「イーゴリを苦しめたのは、心と身体の弱った兄を働かせ続けた両親だけじゃない。生まれてくるミハイロと、そして何より、私だ。」
伯爵の硝子玉のような瞳をまっすぐ見つめて、少女は言った。
ジーナは、生前の兄の姿を脳裏に描きながら、言葉を紡ぐ。
「わたしは、父と母に責められている兄を助けようともしなかった。あの時の彼らは今より若くて、気性も激しく、父は杖を振り回して、兄を殴ることもあった。」
伯爵はイーゴリの痛みを想像しながら、哀しげに眉を下げて、痛ましそうな表情で、ジーナを見つめている。
(この人は苦しむと思った。だから話さなかったのに)
他人の痛みを想像してしまう伯爵には、すべきでない話だと思いながら、ジーナは口を閉ざすことが出来なくなっていた。
「兄は身体が大きくて、父も母も拳を振りかざせば黙らせることができるのに、そうはしなかった。だから私は、愚かなことに、イーゴリは強いから、父にぶたれても平気なのだと思って、物陰に隠れて、いつも嵐が過ぎ去るのを待っていた。」
ジーナは語りながら、違和感を感じていた。
(喉の奥が熱い。イーゴリが居た時のことが、争う父さんと母さんの声が、はっきり聞こえてくる)
それでもジーナの口は、話すのをやめなかった。
「いくら逞しいイーゴリだって、痛くないはずはなかった。イーゴリの心は、そうやって殺されていったのに、私は、気づかなかったんだ。いや、自分が傷つかないために、その時からわたしは、兄の苦しみから目を背けて…」
「ジーナ!」
どこまでも平坦な調子で兄の死を語り、自身を責める独白をするジーナを、伯爵は彼女の手を握って静止する。いつも真っ直ぐ相手を見るジーナの瞳は、焦点が定まっておらず、どこか遠くを見つめている。
ジーナは、少し震えた声で、つぶやいた。
「私は…、兄がどこかおかしいことに、気が付いていたのに…。何も、しなかったんだ。」
ジーナの瞳からは、なにも流れていなかった。いつもと同じ、毅然とした無表情がある。しかし伯爵には、少女は泣いているように見えた。
伯爵は耐えられず、ジーナを抱きしめた。ジーナは黙って、伯爵の頭を眺めている。伯爵には、彼女を責める気など微塵も起こらなかった。
ジーナの肩に頭をうずめながら、伯爵は思う。
(むしろ責められるべきは領主だった私だ。自分では精一杯でも、あの頃の私は人との関わりを避けて、城の窓から見る豆粒のような農民一人一人のことなど知ろうともしていなかった。)
(あの時私がほんとうに助けたかったのは、彼らではなく、私自身だったんだ。義母様とお祖父様への意趣返しばかり頭にあって、領民を救うことはその手段になっていた。)
伯爵は今すぐベッドに潜り込んで唸り、神に懺悔したかったが、今は自分よりジーナを励まそうと踏みとどまる。伯爵は両腕を離してジーナを解放し、彼女の鳶色の目と視線を合わせ、少女に語りかけた。
「君がお兄さんを殺したわけじゃない。」
そして、伯爵は少女の手を緩く両手で包んで、彼女の顔をいつになく真っ直ぐ見つめて言った。
「そんなに辛く苦しい時も、お兄さんは君を守ろうとしていたじゃないか。お兄さんは君を愛していたんだよ。君はイーゴリを苦しめていたんじゃない。彼の心の支えだったはずだ。」
伯爵の目からは、いつのまにかはらはらと涙が溢れ出していた。
(どうして他人のことで、涙なんて流すんだ)
ジーナは不思議に思いながら、伯爵の頬を伝い、光を反射して輝く液体を眺める。
伯爵自身、ジーナやイーゴリを思って泣いているのか、彼の後悔で泣いているのか分からなかったが、頬を流れる暖かい液体は止まらなかった。
愛、伯爵が何度も口にするその言葉の意味は、ジーナには分からない。ジーナは、暖炉と蝋燭の炎をちらちら乱反射して輝く、伯爵の潤んだ碧い目を見ながら考える。
そして、再び口を開いた。
「どうしてか、イーゴリはとても真面目だった。だから兄は私を守ろうとした。でも、兄は私を愛していたのでしょうか。イーゴリは、あの子に向けたような顔は、一度も家族の前では…。」
ジーナは、イーゴリのあの女性への感情は愛かもしれないと思った。けれど、少しの間イーゴリの心を軽くしたあの感情が、イーゴリが家族に抱くものと同じとは思えなかった。
ジーナは少し目線を下げ、言葉を続ける。
「それに………。兄が私たちを愛していたために苦しんで死んだと言うのなら、同じことです。結局、イーゴリを殺したのは…」
「お兄さんを殺したのは君への愛じゃない、それは領主である私やー」
伯爵はジーナに先を言わせないように、彼女の手を強く握りしめながら、言葉を遮った。
しかし、普段伯爵のどんな弱音やうじうじとした言葉も黙って聞いているジーナが、伯爵の話が終わる前に、声を上げた。
「イーゴリが私を愛していたというのなら、どうして、何も言わないで、自分を殺したんだ」
それは、伯爵がジーナから聞いたことがない、怒っているような、熱のこもった声色だった。伯爵はジーナを見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。
ジーナ自身、自分の無礼に驚いていた。ジーナはすぐさま冷静な声で、伯爵に謝罪する。
「エリクは……あれ程の罪を犯した男爵と離れることを拒んだ。彼はそれを愛だと言っていたから、疑問に思っただけです。申し訳ございません。」
伯爵は、ジーナに向かって首を振りながら、この少女は今までどれだけの感情に心を閉ざし、一人で兄の死を抱え続けていたのだろうと思う。
伯爵もその重荷を背負いたかったが、気の利いた言葉は見つからない。黙りこんでしまったジーナが何を想っているのか、伯爵には分からない。しばらく、時計の針の音が響くだけの静寂が流れた。
やがて、伯爵はポケットからハンカチを取り出し、自分の頬の涙を拭う。そして、なるべく優しい声で、静かにジーナに聞いた。
「イーゴリのお墓は、最近行っているかい?」
「いえ…、葬式の後は、一度も。」
「そうか…」
伯爵は無表情のジーナの顔を見ながら、考える。
いつも心が弱る度、伯爵は、幼い時に死んだ父と、一度も会ったことがない母の墓を訪れていた。
生前の父は優しかったが、イヴァンは時々、母を殺したようなものである自分を父が愛しているのか疑問に思っていたし、母に申し訳なく思うこともあった。
しかし、墓石に語りかけると、無論返事はなくとも、イヴァンは悪夢に見る自分を憎む父母ではなく、生前の父や、父が語っていた生前の優しい母の姿を思い出せるのだ。
だから、兄の墓を訪れたら、ジーナも何かいい記憶を、彼女を愛していたイーゴリの姿を、もっと思い出せるかもしれない、と伯爵は期待して、ジーナに提案した。
「私は、イーゴリに色々と詫びたいし、君を守ってくれたことに感謝もしたい。だから明日、イーゴリのお墓に、連れていってくれないだろうか?」
そう言って微笑む伯爵にジーナは、いつもの無表情で頷いた。




