イーゴリの傷
イーゴリが怪我の痛みを抑えて動き始めた頃、一家の働き頭がいなくなってしまうことに焦る両親には全く余裕がなく、いつも怒鳴ってお互いを罵り合っていた。気が立った二人はイーゴリを襲った村人や、襲われたイーゴリ本人、幼い娘であるためにイーゴリほど使えないジーナ、果てには生まれてくる赤子に罵倒の矛先を向けた。
しかし口先で何と言われようと兄妹は無表情で動じない。幼い頃から二人の喧嘩を見続けていた兄妹はすっかり両親の言葉には心を閉ざし、何も聞かないのが一番だと学んでしまったのだ。家の中を吹き荒れる嵐を兄妹は意に介さず、己の仕事に励んでいたが、怒号だけでなく拳も飛んでくるとなると、そうもいかない。
一家で一番体格のいいイーゴリは、取っ組み合いになった父親と母親がうっかりどちらかを殺さないように仲裁しなければならないし、幼いジーナが巻き添えを喰らわないように程々にやめさせる役目をいつも負っていた。それに、酒や痛みで荒れている時の父親は息子に手をあげることも多々あった。イーゴリは五体不満足な父親にやり返すこともできず、ただ杖や拳で殴られていたが、その度、身体よりも心のうちで何かが削れていく感覚がした。
その日も父はイーゴリを殴り始めた。いつもは耐えられる父の暴力も、傷が癒えきっていない時にはかなり痛む。これ以上働き手を痛めつけるなと逆上した母親が瓶で父親を殴りつけ、イーゴリは父の拳から逃れたが、父はだらだらと血を頭から流している。イーゴリは父の止血をしながら、物陰に隠れさせたジーナに出てくるなと目線を送る。
物心ついた時から仲の良い家族とは言えなかったが、最近は毎日殺し合いをしているような両親に、イーゴリは哀れみを覚えていた。誰も彼も互いを好んでいるわけでもないのに、慣習と法のせいでこの土地とあばら家に縛り付けられている。きっとずっと、こんな毎日が過ぎて、そのうち飢えて死ぬのだ。
目下夫婦の争いの下は、飢えて死ぬ順番だった。彼らは子供のために率先して土に埋まろうという気概など持ち合わせていない。イーゴリとジーナに食わせ、赤子を産もうとしているのは、働き手を得るために過ぎないとイーゴリは知っていた。しかし、この頃は不作だ。母と父からしてみれば、この食べ物のない中、子供は食糧を減らす存在でしかない。イーゴリは、この困窮の中、両親が何を言い出すか、ずっと心配していた。
案の定、その日父は、頭から血を流しながら、イーゴリが恐れていたことを言い放った。
「あんたねえ!!イーゴリがまた働けなくなったらウチはもうおしまいじゃないか!!!このウスノロ!もう、もらった麦も何もなくなってるってのに冬はまだまだあるし、どうする気なのさ!!!」
「うるせえなあ!どっちにしろもう終わってんだよ!俺たちは!こいつは当分人並みに働けねえし、村中に食糧がねえ!」
「じゃあどうするのさ!あたしは嫌だからね、あんたと野垂れ死だなんて!」
「お前が産む赤子とジーナを売ればちょっとは足しになるだろ!それで食糧か家畜でも買って…」
イーゴリは、思わず、既に手負いの父親を殴った。父が昏倒して、母が悲鳴を上げて、ジーナが止めに入るまで、何発も殴ってしまった。ジーナに頬を張られて正気に返ったイーゴリは、気を失った父に詫びた後、上着も毛皮も羽織らず雪の降る外に出て行った。
イーゴリが許せなかったのは、父を殴る前にほんの一瞬、
(ああ、そうすれば楽になる。)
そう思った自分だ。
そんな自分を否定したくて、父に拳を振るった。しかしイーゴリは、何か大切なものが自分の中で消えてしまったことを感じながら、ただ虚しく、白い世界を見ていた。




