イーゴリの惜春
あっさりすぎたので直して長くしました。
あの幸福な一日の後、イーゴリはまた忙しく働いた。労働ばかりの日々の景色はしかし、いつもより鮮やかに色づいていた。
「最近、何かいいことでもあったのかい?」
イーゴリと馴染みの、老いた農夫が、領主の畑を耕す彼に声をかける。イーゴリの心が、いつもどおりの無表情とは裏腹に、高揚していることに勘付いたようだ。
「…別に、何もないです。」
イーゴリは眉も動かさず、変わらない声の調子で努めて平静に答える。冷静を装うその様が、実は何より自分の言葉を肯定しているのだと気づいていない若者に、農夫はお節介な笑顔を向けた。
イーゴリは珍しく話し相手から目を逸らし、決まり悪そうに頭を掻くと、無心に大して必要のない雑草むしりを始めた。彼の小さな妹は、冷めた表情でらしくない兄の背中を見つめている。
大方懸想をしている様子だった、あの城の娘と何かあり、その光景が頭から離れないのだろう。
勘のいい老人は、微笑ましい若者の様子を、目を細めて眺める。いまや死の影が差す、冬が長かった自らの人生にも、この若者のように一時の暖かい陽光が差した時期があっただろうか。老人は鍬を振るいながら、遠い遠い日の、朧げな思い出の輪郭を探り、この働き者の青年の春が、少しでも長く続くことを祈った。
一週間が経つ頃、そわそわと無表情ながらに落ち着かないまま、イーゴリはようやく愛しい人のいる城に向かった。道中、イーゴリもジーナも真顔だったが、イーゴリはいつもの何倍もおしゃべりだった。もっとも、同じ質問を妹に投げ続けただけである。
「何を話せばいいと思う。」
「知らない。」
無表情で何回も聞いてくる兄に、妹はうんざりしていた。薄情な妹の答えに、兄は食い下がる。
「お前も、女だろ。彼女は何が好きだと思う。」
「知らない。それなら、イーゴリは私よりあの人と年が近い。」
少年と同じ格好をして、兄と同じような生活をし、村娘の話題からは遠い自分に女性の趣味など分かるはずもない。第一、8つになったばかりの子供に十代も終わり頃の女性にふさわしい話題や贈り物を聞くな。ジーナは一言と視線だけで兄に訴え、イーゴリも妹の心情を察し、その後は二人とも黙って城まで歩いた。イーゴリは内心、女性らしいこともさせないのに女扱いしたことを怒ったのかとも気にしていたが、ジーナは兄の心は知らず、例え兄に勧められても動きやすいズボンを履き続けたことだろう。
(この頃イーゴリは、急にうるさくなった。恋が人を変えるとは、本当だな。)
ジーナはイーゴリの青年らしい浮かれぶりに呆れる一方で、どこか兄の変化を嬉しく思ってもいた。
「二人で出かけたい場所。」
城の門の前で、あまりに兄が表情を変えないまま絶望的に不安そうな空気を醸し出していたので、少女はてきとうに思いついたことを言った。森で見かけた恋人たちが夢見心地に話していたことだ。無論、農民たちは気軽に領主の許可なく帝都や村から離れた場所に遠出などできない。しかし彼らはとても楽しそうに、見たことのない土地や国の名前を語り合っていた。
「それ、いいな。聞いてみよう。…彼女と何処かに行くときは、お前も来るか?」
「二人で行かなきゃ意味がない。」
「そうか…?彼女も、喜ぶと思う。ジーナは、どこに行きたい?」
ジーナは兄が彼女に捨てられないか心底不安になった。逢引に妹を連れて来る男など、貰い手はあるのだろうか。しかし本気でジーナも一緒に行った方が彼女も嬉しがると思っている兄は、静かな湖面のような青い瞳で、真っ直ぐ妹の鳶色の目を見て尋ねる。小さな妹は、ため息をついて答えた。
「……、…海?」
ジーナはあまり村の外の土地を知らないし、夢見ることもない。行きたいと思うところもない。しかし、どこまでも水平線が続く海という巨大な湖は、見てみたいと思っていた。
「海か。俺も行ってみたい。彼女は海を見たことがあるのかな。川の魚を綺麗だと前に言ってたけど、海の魚は好きだろうか?」
「話が逸れてる。魚のこととか聞かないで。行きたい場所だけ聞いて。私はいいから。」
「わかった。」
ジーナは、酒場にもろくに行かない兄の将来を案じながら、彼女のいる窯へ向かう兄の後ろをついていった。厨房の扉の前で、イーゴリの青い瞳は輝き、胸の鼓動は早くなっていく。ずっと扉の前で立ち止まっている兄の背中をジーナが小突くと、イーゴリは挨拶をしながらゆっくりと扉を開けた。
「あの子は、もういないよ。」
彼女はもう城にはいない。この村の中にもいない。この国にいるかも分からない。イーゴリは、彼女の代わりに彼にパンを渡した男が言った言葉を飲み込めず、ずっと頭の中で繰り返していた。厨房の料理人は、呆然としているイーゴリに、もともと奴隷身分であった彼女は、領主の代理人によって、別の土地に売られてしまったと言った。彼女は恐らく、他の奴隷と結婚させられるだろう、農奴に買い戻すことなどできない、彼女のことは早く忘れてしまった方がいい、とも彼は言った。彼は若い男を慰めるために、厳しい親切心でそう言ったのだが、ぼんやりと遠くを見つめるイーゴリにどこまで届いているのかは分からなかった。
「………そう…ですか。そう、だったんですか。教えてくれて、ありがとうございます……。すみません、俺、知らなかったから…彼女に会えると思っていて…それで……驚いてしまって…。お別れを言えなかったのは、残念です。もし、彼女に言葉を送ることができたら、どうか元気で、と、伝えてください。」
長い沈黙の後、イーゴリは口を開いた。そして静かな声で、彼にしては不明瞭な話し方でとりあえずの礼を言うと、パンの入った袋を抱えて踵を返した。料理人は心配そうにイーゴリの背中を見つめていたが、彼が城の中で大きく取り乱したり、暴れたりすることはなかった。一人の貧しい農民の若者が喚いても、引きこもっているらしい領主の部屋まで乗り込もうとしても、事態は何も変わらない。ただ、今までもそうしてきたように、不幸は全て飲み込むしかないのだと、イーゴリは理解していた。家に帰るまで、イーゴリは一言も話さなかった。兄の口数も表情も、以前と同じに戻っただけだ。しかしジーナは、家の外で一人星を眺める兄の心が、どこか遠くへ行ってしまったことを悟った。
二週間後、行商人が村を訪れた際、イーゴリ宛だと言って彼に一通の手紙を手渡した。あまり質の良くない紙には、イーゴリが見たことのない文字が書かれていた。彼には手紙の内容が理解できなかったので行商人に聞くと、もうイーゴリに会えないということ、彼女はイーゴリを愛していて、離れていてもその幸福を願っているということ、彼への感謝の言葉が書いてあると教えてくれた。異民族の言葉で書いてあるため、行商人も正確に訳すのは難しいと言った。イーゴリはそれだけ分かれば十分だと答え、行商人に丁寧にお礼を言った。
家に戻った後、イーゴリは小さな木箱をつくって、読めない文字の羅列が書かれた、帳簿の裏らしきその紙を、大切にしまった。兄なら理解できただろうか、ルーシの言葉でないなら無理だろうかとイーゴリは穴の空いた天井を見つめながらしばらく逡巡していたが、どこにも行き着かない考えを巡らすのは止め、目を閉じた。網膜の裏を見つめながら、イーゴリの思考は止まらなかった。短い間、彼女と過ごした日々の光景が、まぶたの裏に映る。彼女の笑い声が聞こえる。幻影を見ながら、イーゴリは後悔せずにいられなかった。
(俺は、あの子の置かれていた状況もよくわかっていなかった。彼女は何を考えて、いつも笑顔でパンをくれたのだろうか。俺が文字を書けたら、もっと彼女の心を軽くできていたかもしれないのに。せめて彼女がいなくなってしまう前に、感謝の言葉を、俺も伝えたかった。)
しかし、悔やんだところで何になろうか。兄も彼女も、もう会えない地にいるのだ。
その夜、イーゴリは、兄が死んで以来、初めて少し涙を流した。春は一瞬で、過ぎ去ってしまった。この土地の冬は長い。イーゴリは彼女の冬が明けることを神に祈って、明日からまた冬を生きるため、眠りについた。兄の漏らした嗚咽を寝たふりをして聞いていたジーナは、イーゴリの寝息が聞こえ始めると、その逞しい背中を小さな手で撫でてやった。




