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カースカ(旧スーカスカ)  作者: ぷらまいせぶん
働き者のイーゴリ
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伯爵の赦し

「イーゴリの負担になったのは、心と身体の弱った兄を働かせ続けた両親だけじゃない。生まれてくるムハイロと、そして何より、私だ。自分では兄を助けている気でいました。本当は、全然足りなかったのに……私は、父と母に責められている兄を助けようともしなかった。あの時の彼らは今より気性が激しくて、父は杖を振り回して、兄を殴ることもあった。兄は身体が大きくて、父も母も力を振りかざせば黙らせることができるのに、そうはしなかった。だから私は、愚かなことに、イーゴリは強いから、弱い父にぶたれても平気なのだと思って、自分は物陰に隠れて、いつも嵐が過ぎ去るのを待っていた。いくら逞しい兄だって、痛くないはずはなかった。それに、兄の心は、そうやって殺されていったのに、私は、気づかなかったんだ。いや、自分が可愛くて、その時から、兄の苦しみから目を背けていたのかもしれない。」


「ジーナ!…」


どこまでも平坦な調子で兄の死を語り、自身を責める独白をするジーナを、伯爵は彼女の手を握って静止する。いつも真っ直ぐ相手を見るジーナの瞳の焦点は定まっておらず、彼女はどこか遠くを見つめて、ずっと胸の奥で抱いていた後悔を口にし続ける。それは目の前の伯爵より、天の神か、ここにはいない兄に向けた言葉だと伯爵は思った。


「私は…、兄がどこかおかしいことに、気が付いていたのに…。何も、しなかったんだ。」


ジーナの話を聞いた伯爵には、彼女を責める気など微塵も起こらなかった。


(むしろ責められるべきは領主でありながら、領民の青年が自死に至るのを止められなかった私だ。あの頃、自分では精一杯したつもりだったが、人との関わりを避けて、城の窓から見る豆粒のような農民一人一人のことなど知ろうともしていなかった。私が助けたかったのは彼らではなく私自身だったんだ。義母様とお祖父様への意趣返しばかり頭にあって、領民を本当に救うことは目的ではなくその手段になっていた。)


自責の念に苦しむ伯爵は今すぐベッドに潜り込んで唸り、神に懺悔したかったが、今は自分よりジーナを励まそうと考える。


「君がお兄さんを殺したわけじゃない。そんなに辛く苦しい時も、お兄さんは君を守ろうとしていたじゃないか。お兄さんは君を愛していたんだよ。君はイーゴリの心の支えだったはずだ。君がそう思うことを、彼は望んでいない、と私は思う。」


伯爵は少女の手を緩く両手で包んで、彼女の顔をいつになく真っ直ぐ見つめて言った。伯爵の目からはらはらと溢れ出す涙に気がついたジーナは、何故他人に同情して涙を流すのかと驚く。伯爵自身、ジーナやイーゴリへの共感で泣いているのか、彼の後悔で泣いているのか分からなかったが、頬を伝う暖かい液体は止まらなかった。ジーナは暖炉と蝋燭の炎を乱反射する伯爵の潤んだ碧い目を見て考える。愛、伯爵が何度も口にするその言葉は、ジーナには分からない。


「兄は責任感の強い人でしたし、そう強いられていました。だから兄は私を守ろうとした。でも、兄は私を愛していたのでしょうか。イーゴリは、彼女に向けたような顔は、一度も家族の前では…。」


ジーナは、イーゴリのあの女性への感情は愛かもしれないと思った。けれど、イーゴリを一時元気にしたあの感情が、イーゴリが家族に抱くものと同じとは思えなかった。


「それに………。兄が私たちを愛していたために苦しんで死んだと言うのなら、同じことです。」


「お兄さんを殺したのは君への愛じゃない、それは領主である私やー」


「イーゴリが私を愛していたというのなら、何故私に何も遺さず、自分を殺したんですか!」


イーゴリの死の責任を自分に帰そうとする伯爵の言葉を遮って、ジーナは疑問をぶつけた。伯爵は今まで見たことのない、声を荒げたジーナの無表情を見て、ぱちぱちと目を瞬かせる。主人の言葉を聞かず、強い調子で言うつもりはなかったジーナ自身、驚いていた。伯爵はジーナの声と瞳に、微かな怒りを見た気がした。


「エリクは……あれ程の罪を犯した男爵と離れることを拒んだ。彼はそれを愛だと言っていたから、疑問に思っただけです。申し訳ございません。」


ジーナは再び平坦な声に戻って、伯爵に謝罪する。伯爵は、この少女は今までどれだけの感情に心を閉ざし、一人で兄の死を抱え続けていたのだろうと思った。伯爵もその重荷を背負いたかったが、気の利いた言葉は見つからなかった。しばらく、時計の針の音が響くだけの静寂が流れる。黙りこくってしまったジーナが何を想っているのか、伯爵には分からない。伯爵はポケットからハンカチを取り出し頬の涙を拭って、なるべく優しいと思う声色で、静かにジーナに聞いた。


「ジーナ、お兄さんのお墓、最近行ったかい?」


「いえ…、葬式の後は、一度も。」


伯爵はよく、城の近くの教会にある父母の墓を訪れる。当然すぐ傍に埋まる祖父と対話する勇気はまだないが、心が弱る度、伯爵は父と、生前一度も会ったことのない母に助けを求めた。父は優しかったが、イヴァンは時々、母を殺したようなものである自分を父が愛しているのか疑問に思っていたし、母に申し訳なく思うこともあった。墓石や棺に話しかけても返ってくる言葉は何もないが、そうすると、イヴァンは悪夢に見る自分を憎む父母ではなく、生前の父や、父が語っていた生前の優しい母の姿を思い出せるのだ。

だから、兄の墓を訪れれば、ジーナも何かいい記憶をもっと思い出せるかもしれない、と伯爵は期待して言った。


「私は、彼に詫びたいし、感謝もしたい。明日、連れていってくれないだろうか?」


微笑む伯爵に、ジーナは無表情で頷いた。


「誰にも話さなかったことを、私に話してくれてありがとう。今日はもう寝なさい。」


伯爵はジーナの手をとって、廊下の先にある彼女の部屋まで連れて行く。ジーナの部屋の扉を開け、彼女と別れて自室に戻ろうとした伯爵のカフスが弱く引っ張られる。いつもであれば考えられない行動をしたジーナは、通常では恐れ多くて口にもしない我儘を言った。


「不躾だとは思うのですが……。ムハイロに歌ったと言う子守唄を、私にも歌っていただけないでしょうか。……ムハイロがよく眠れたと言っていましたから。」


変わらず感情の見えない顔だが、珍しく歯切れの悪いジーナの要望に、伯爵は戸惑った。


「えっ?あれをかい…?君が私に歌ってくれたのと同じものだが…。勿論、君が悪い夢を見ずに済むならいくらでも歌うけれど………。」


伯爵自身不気味であることを自覚している子守唄で、ムハイロはスヤスヤと眠りについたが、ジーナが果たしていい夢を見られるのだろうか。伯爵はむしろ悪夢を見せてしまうのではないかと懸念していた。しかし、揺るぎない瞳で、無言で伯爵を見つめるジーナに根負けし、彼女のベッドの側の椅子に座って、ジーナが寝付くまで歌った。


死神が歌っているような伯爵の子守唄を聞くジーナは、不思議によく眠れた。

壁から幽かに漏れる不気味な死神の声を聞かされた隣室の使用人たちは、悪夢に唸ることになった。

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