イーゴリの死
最近イーゴリは、吹雪の激しさも、両親の怒号も、酒場の喧騒も、かしましい女性の声も、男たちからの誹りも以前にまして気にならなくなっていた。何も考えず、無心に鍬や鋤を振るって、牛たちの世話をしていれば日が暮れる。大空を飛び回る鷲が羨ましい。渡り鳥のように、領主もツァーリもいない土地に渡って、自分の耕地を持って、あの子に会えたら。イーゴリにしては珍しく、ただぼうっと夕日を見つめて、お伽話でしかない、夢想に一瞬浸った。
「帰らないの、イーゴリ」
ジーナの声で、虚ろな目で遠くを見つめていたイーゴリは我に返った。
「ああ、帰ろう」
イーゴリは小さな妹の手を握って、家への道を歩き始める。彼はもう、農民が一夜で億万長者になるような昔話を信じる歳ではない。イーゴリは自分の人生は、この地でずっと働き、骨を埋めて終わることだと思っていた。イーゴリは隣を歩く妹の無表情な横顔を見つめながら、妹の将来を不安に思う。イーゴリがどんなに働いたところで、ジーナが豊かな生活を送れるわけでもないし、どこかで知らぬ農民だか貧しい職人に嫁がされるのだろう。しかし、イーゴリがいなくなったら、ジーナはあの家で、この土地で、嫁ぐ歳まで生きられるだろうか。
(俺が食わせてやらなければ)
イーゴリは妹が生まれた日からの自分の義務を思い出す。話し下手な兄は、妹に自身の思いを話したことはなかった。
日が沈んだというのに、魚が全く釣れていない。野兎でも狩った方がいいかと罠も仕掛けたが、一匹もかからない。兎もこの土地から逃げ出したのか。入り組んだ洞窟のようになっている穴の中で焚き火を焚き、ジーナと篭る。毛皮を着ているので、二人とも凍死することはないだろう。ジーナを家に帰したかったが、両親しかいない場に妹を一人残すのも不安な上、獣の声も聞こえる夜の森で迂闊に歩くのも危ない。森の入り口の側にあり、割合開けたここで夜を過ごすことにイーゴリとジーナは決めた。洞穴のすぐ前に湖があるので、ジーナの寝息を背中に聞きながら、イーゴリは氷に穴を開けて釣りを続ける。明日までには、何かしら獲物が捕れることを願って。
翌朝、寒さに震えて起きたジーナは、イーゴリがいなくなったことに気が付く。そして湖の辺りに行き、釣竿と籠、そして割れた氷から覗く水面に浮かぶ、兄の靴を見つけた。