お人好しの伯爵
「ですが、ミハイロとゾーヤをここに置いて行くのは、不安です。あなた方の暮らしがどうなるのかも、心配だ。……なので、突飛な話だけれど…これからしばらく、差し当たり毎日…兵士を一人、この家に来させます。」
「!?」
伯爵以外の全員が、驚愕の表情を浮かべた。ジーナだけは、眉を動かしただけだったが。
「イヴァン様、…兵士とはいったい誰ですか。」
老練の戦士であり、伯爵の世話を焼いてきた執事すら、動揺した様子で、咄嗟の質問を投げかける。
「…とりあえずは、そこの彼が。」
伯爵は、一人の兵士を指さして言った。伯爵に賭けている、とジーナに言った兵士だ。理由は単に、一番体格が立派だったからである。
「え!?俺!?」
呆けた表情で事態を見守っていた兵士の男は、思わず大声を上げてしまった。物凄く外れくじな役回りじゃないか、と兵士は思ったが、ここで伯爵に逆らうことは出来ない。
「四六時中見張る気か?俺たちは罪人じゃねえ!!」
「領民であるジーナを、領主に無断で売ったことは、私が裁判を開けば有罪です。」
怒鳴るジーナの父親に、伯爵は無慈悲な言葉を返す。
「勝手な!!そうなったのも、あんたら領主のせいじゃないか…」
ジーナの母親は、怒りと哀しみで目を潤ませ、伯爵を睨みつけながら、少し掠れた声で言った。
伯爵は悲痛な表情を浮かべた。ジーナの母親と同じ窮状にあっても、子供を売らない親も居るだろう。しかし、祖父や義母、そして自身の統治の下で彼らが味わった労苦を、イヴァンが否定することは出来ない。彼は目を瞑り、深く呼吸した後、静かに言った。
「そのことについては、本当に申し訳ない。あなた方にも、ジーナやミハイロ、ゾーヤ、そして、イーゴリにも…。」
ジーナは、深い鳶色の瞳で、伯爵を見つめている。
「これからは……もっと、あなた方が、皆がつらい思いをしないように、尽力する。」
伯爵は、中年の夫婦から目を逸らさず、真剣な声で言った。
「この数十年、何も変わらなかったじゃねえか」
すかさず吐き捨てるジーナの父親に、伯爵は不快感を示すこともなく、滔々と語り出した。
「芽を出すまで育て、土や品種を改良していくには、長い時間がかかる。50年以上領主だった祖父は、偉大な戦士だったが、領民の暮らしには目を向けなかった。私は、戦にはおよそ向いていないが、領地を豊かにしていきたいと思っている。この7年、そのために種を蒔いています。」
「でも、そのような悠長なこと、あなた達が待てるわけがない。私は…ずっと城に籠ってばかりで、何も村のことを分かっていなかった。貴方がたのこれまでの不幸は、私の失政以外の何物でもありません。」
(いきなり、伯爵様が立派な領主のようなことを言い出したぞ…)
(この人、まともに話せたんだな)
いつも城で寝込み、ジーナや執事に世話されている主しか見たことがなかった兵士たちは、大変困惑していた。クルィーヴとジーナは、伯爵の言葉を沈黙して聞いている。
「…だからどうだって、」
ジーナの父親の言葉を遮り、伯爵は話し続けた。
「脚の痛みに苦しまれているという貴方からは、賦役を免除しましょう。ゾーヤはまだ乳飲み子でなくなったばかりですから、母親の貴女の分も。これは、貴方たちだけでなく、領地全体の病人、けが人も同様です。」
そう言えば、数か月前に、伯爵がそんなことを話していたな、とジーナは思い出した。ジーナの両親は口をつぐみ、伯爵の話を黙って聞き始めた。
「それと…幼いゾーヤやミハイロだけでは、家事や畑仕事を十分に手伝えないでしょうから…力仕事や諸々の必要があれば、私の兵士…彼に言ってください。」
「え…俺が?」
(そんなこともやるのかよ)
と、勇猛果敢なコザークの昔話に少し憧れを抱いていた兵士は、肩を落とした。しかしすぐ、これは伯爵に信頼されている証だと思いなおした。傍らの同僚は、同情する眼差しで、彼を見つめているのだが。
「なんで、そんなこと…、それなら、もっと早く…、」
「今更、今更なにさ…」
突拍子もないことを矢継ぎ早にいう伯爵に、夫婦は愕然とした表情で零す。伯爵の言葉は、彼らの胸奥の堰を切った。
領主が自分たちへの仕打ちを顧みるなんて、ジーナの両親は夢にも見たことがない。自分たちが領主に負う義務が変わることも、ないと思っていた。それが、子供の頃、大人から教えられたことだった。そして、彼ら自身が、人生の経験から思い知ったことだった。幼い子供が賦役に行くことも、危険な森で食料や薪を集めに行くことも、彼らにとっては当然のことだったのだ。
百年以上前、この地に逃れてきた先祖たちは自由だったことなど、彼らはすっかり忘れていた。
(本当に、遅かった。イーゴリはもう帰ってこない。私が義母様にちゃんと抗っていれば、もしかしたら彼は、この一家は……)
伯爵は、今はもう居ない青年の苦しみと、声を掠れさせている彼の親、そしてジーナの心情を想って、悲しくなった。
(だが、今の彼らを、助けることは出来るのだ。)
伯爵は、俯かないように顔を上げた。そして、まっすぐとジーナの両親の顔を見て、伝える。
ジーナとミハイロと同じ目の色、髪の色をした中年の夫婦の瞳には、心なしか水が張っているように見えた。
「最後に、先程言った通り、ジーナには、これからも城で働いてもらうつもりです。ジーナと一緒に、私は、この地をもっと豊かにしていきます。」
「ですから…。貴方がたは、傷を癒して、子供を大切に育ててください。子供はいつまでも、そのことを覚えていますから。」
そんな主の様子を、ジーナは相も変わらぬ無表情で眺めていた。
「呼べばいつでも戻るから。ゾーヤを危ない目に合わせるなよ。」
「当たり前だろ!」
遣る瀬無い後悔に黙り込んでしまった両親をよそに、ジーナはミハイロとゾーヤに声をかけた後、足早に立ち去った伯爵たちを追って、家を出た。
ジーナには、伯爵が何故ジーナやミハイロたちを案じるのか、弱い心を痛めてまで、ジーナの両親に怒り、詫び、そして農民の負担を減らそうと努めているのか、未だに理解できなかった。偽善、信仰、名誉心、色々な言葉が浮かぶが、どれもジーナの中の伯爵にぴったりと嵌るものはない。
(それほど、優しいお人好しなのか?)
「優しさ」というものだけで動いている人間は、馬鹿に違わず、早死にするものだとジーナは思っていた。そして、伯爵がそのうち、心労のあまり倒れるところを想像した。伯爵が死んでしまっては、ジーナも家族も貧しさから抜け出せない。
(何故か伯爵様の中では、私も奇行の手伝いをすることになっているらしい。いずれにせよ、せいぜい、理想が破れてもこの人が死なないよう、支えるしかないな。)
慣れないことをして、馬車の中でぐったり横になっている伯爵に、水と気付薬を与えながら、ジーナは決意を新たにした。




