夫婦の言い分
「愛?なんだって?」
伯爵の突然の問いかけに、ジーナの父親はあばた面に訝しげな表情を浮かべる。家族愛という概念を知らずに育った彼には、伯爵が何を聞いているのか、「愛する」、という言葉の意味するところも分からなかった。
「愛しているのなら…、もっと子供達に優しく接するべきです。」
そんな、ジーナの父親の事情は知らぬ伯爵は、ジーナと同じ茶色の目と、ミハイロと同じ青い目を見つめながら言った。
だが、その言葉は、バケツの水を溢れさせてしまった。
「うるせえな!!!俺たちが貴族や金持ちだったら、もっと蝶よ花よと育ててやるよ!!!」
貴族への敬意、元からそんなものを本心から抱いたことはないのだが、それに注意を払うことを完全に忘れた農夫は、今まで人生で不幸に会うたびに募らせていた恨みを込めて、自分たちの領主である伯爵に向けて、しゃがれた怒鳴り声を上げた。
それは、ジーナですら少し驚くほどの剣幕だった。
「そ、それは…、しかし…、それにしたって、子を家畜の代わりに売るなど、許容できません!」
伯爵は、いまにも剣を抜きそうな執事を片手で静止しながら、なんとか反論した。領主への恐れを怒りで忘れているジーナの父親は、伯爵を睨みつけたまま怒鳴る。
「仕方ねえだろ!じゃなきゃ全員、冬には飢え死にだ!!大体、まだイーゴリがせめて生きてれば、もっと働かせられたのによぉ!」
ジーナの母親も娘を睨みながら、被せるように叫んだ。
「そうさ、この子がイーゴリを殺したから、当然のことだよ!!大体、働き手がいないからそれでも食わせてやったのに、一人だけ領主様に取り入って、厄介ごとを持ち込んで…」
怒り、恨み、妬みの篭った言葉をぶつけられた伯爵は、胸が苦しく、今すぐ崩れ落ちたかった。しかし二人の言葉は、どうしても聞き流せない。
伯爵は、ジーナの両親の目を正面から見据えて、はっきりとした声で反駁した。
「待ってください、…あなた方が、貧しさ故に子を慈しめないということはまだ受け入れられます。しかし、ジーナが…聞くところによると彼女の兄を殺したと言うのは、どういうことですか。彼女はその時、まだミハイロと同じかそれより小さかったそうですが、そんな幼子が成人男性を殺せましょうか?」
ジーナの父親は、娘を指さし、伯爵が予想だにしなかったことを言った。
「さあな!!だが、そりゃ、そいつ自身が言ったことなんだよ!」
伯爵は思わずジーナの方を見て、驚きの声を漏らす。
「なんだって、」
ジーナの父親は、娘を睨みつけ、そして忌々しく吐き捨てた。
「8年ぐらい前のある日、湖でイーゴリが消えたのさ。一緒に湖に行ったジーナに話を聞いたら、私が殺したって言ったんだよ!」
(そんなこと、到底信じられない)
伯爵は、大きな薄く青い目を見張りながら、ジーナと父親の二人に問いかけた。
「何故そんなことを言ったんだ…貴方は、そのような、子供が言った話を、信じるのですか!」
しかしそこで、沈黙を守っていたジーナが割って入った。
「いいのです、伯爵様、真実ですから。」
ジーナの父親は、鼻で笑い、領主である若者に言った。
「ほら、そいつもそう言ってるだろ、」
しかし伯爵の耳には、農夫の言葉は入ってこなかった。弁明もしないジーナに、伯爵は次々に疑問を投げかける。
「だって、…どうやって、どうして」
ジーナの鳶色の瞳には、伯爵の焦る顔が映る。しかし、湖面のように澄んだ瞳は、眼前の伯爵ではなく、遠い何処かを見ていた。
ジーナは、少し経ってから、血色のいい唇を開いた。
「…私が、川で溺れたところを、兄が助けたのです。でも、兄は水中で身動きが取れなくなって、私は助けられず…」
ジーナの言葉を聞いた伯爵は、動揺しながらも、彼女を庇うように選んだ言葉を投げる。
「そ……それは、しかし、君が殺したわけじゃないだろう、子供が湖で溺れるなんてよくあることじゃないか、わたしだって…」
伯爵にとってそれは、ジーナが両親に恨まれるほどの過失とは思えなかった。しかし、貧しく、働き手に困っているジーナの両親には違った。
ジーナの父親は瓶から酒をごくごくと飲み、吐き捨てるように言った。
「なんにしろ、こいつの不注意でイーゴリが死んだことにはかわりはねえ。俺は昔馬車に轢かれたせいで片足もねえし、まともに働けたのはイーゴリだけだったってのによ!」
隣のジーナの母親も、苛ついた溜息をつき、愚痴をこぼす。
「一番の働き手がいなくなったおかげでますますうちは苦しくなったんだよ。夫が片足で醜男じゃなけりゃもっと金も入っただろうがね。」
「あぁ?お前がもっといい子を産めば…」
そして、夫婦の怒りの矛先は、領主と娘から、互いに向かった。
「やめてください!!!あなた方は、よくもそのような言葉を子供のまえで……、なんて勝手な人たちだ。」
夫婦の身勝手さが許せない伯爵は、思わずまた、大きな声で怒ってしまった。
普段か細い声で話すのに、先ほどからずっと声を張り上げているせいで、声が掠れている。
「伯爵様こそ、私らから子を奪おうってのが、勝手ですがね。」
農婦は、冷たい声で返した。彼女の夫は、酒瓶をぶらぶらと揺らしながら、ぶっきらぼうに言い放つ。
「そいつを連れて行きたいなら勝手にしてください。だが、ミハイロとゾーヤまで奪われちゃ困る。」
「ゾーヤはあんたより女っぽい、美人な子になるさ。そしたら、金持ちの農民に嫁がせるんだよ。貴族なんか、金どころかこんな夫を寄越しただけだ。」
ジーナの母親は、ジーナを冷えた目で見ながら、当てつけるように言った。
「あなた方は………。」
兄の死を抱える娘に向き合わないどころか、彼女に責任を負わせる両親に、伯爵は失望し、呆れ、怒りで拳を震わせる。平常、柔和で弱々しい表情を浮かべている伯爵だが、今は怒りで眉間に皺を刻み、灰色の瞳でまっすぐ夫婦を見つめ、唇を噛みしめていた。
その傍で、怒りも悲しみも感じない、いつも通りの無表情を浮かべているジーナが、伯爵の袖を引いて囁く。
「伯爵様、このまま、父さんと母さんと話していては、夜も明けてしまう。」
部屋の隅からこちらを見ていたミハイロも、頷いている。
伯爵は項垂れ、小さく溜息をついたあと、ジーナの両親に告げた。
「…、今日は、ジーナを連れて、帰ります。」
中年の夫婦は、満足したように口元をゆるませた。
しかし、その後、伯爵は全く彼らが予期しなかったことを言った。




