伯爵の疑問
父親から逃げ回るのは簡単だとミハイロは言っていたが、怒鳴り声を聞いた伯爵は気が気ではない。
「大丈夫です」
隣に控えるジーナも、そう言っている。しかし、母親も一緒になってミハイロを叱りつける声まで聞こえてくる。不安に耐えかねた伯爵は、ひとり場を離れ、ジーナの家の戸に向かって走って行った。
「イヴァン様!」
執事が声をかけるが、伯爵は戻らなかった。焦った執事と兵士たちも、伯爵の背中を追う。ジーナも一緒に、家の方に走り出した。
「失礼する!」
伯爵は、鍵が壊れている木戸を開き、気弱そうな声を張り上げた。その間に、兵士たちも続々と家の中へ乗り込んでいく。
突然、領主と武器を持った数人の男たちが家に入ってきたので、農民の夫婦は驚きで物を言えなくなってしまった。ジーナの父親は脚の幻痛に呻き声をあげ、しゃがみこむ。その隙にミハイロは、部屋の隅で怯えていたゾーヤのもとに行って、よしよしと頭を撫でた。
領民を怯えさせてしまった伯爵は少し胸が傷んだが、引き下がるわけにもいかないと、毅然と声を出す。
「ミハイロは遊んでいたわけではなく、ジーナを助けに行っていたのです。この私と共に。」
「ジーナ?…まさか、」
夫婦は身体を傾け、伯爵の後ろを覗き込む。そして、ジーナの存在に気がつき、息を詰まらせた。
(伯爵はそんなにジーナに執心だったのか。不味いことをやっちまった)
中年の夫婦は、揃って顔を青くする。娘を売ったことを咎められると思った二人は、伯爵に跪き、埃っぽい床に額をつけて、平伏した。
「わ、わざわざ、ご迷惑をおかけしまして…。」
以前、ジーナを連れ戻しに来た時の迫力は嘘かのように、ジーナの母親もしおらしかった。伯爵と兵士達が何をする気か、最悪の場合を想像した二人の手は、震えている。
伯爵は、恐怖に震える夫婦を、悲しそうな顔をして見つめた。他方、彼らの子供は、まったく動じていなかった。それどころか、ジーナに加えて、感情豊かなミハイロさえも、冷えた眼差しで両親を見ている。
伯爵は、紫色の唇を開き、静かに言った。
「私ではなく、あなた方の娘に謝ってください。」
夫婦は、何のことかと一瞬呆けた顔をする。しかし、伯爵の命令ということで、とりあえず娘に謝った。
「すまなかった、ジーナ…」
とぼけた謝罪を聞いたジーナは、特に怒りも悲しみも籠もっていない声色で返す。
「割りのいい取引だったから。父さんと母さんがそうするのもわかる。」
全く顔の筋肉を動かしていないジーナの方を振り返って、伯爵がつぶやいた。
「ジーナ…」
(自分を売った両親を咎めないとは、なんと慈悲深い子なのか)
善意に満ちた伯爵の目には、ジーナの無表情は、聖画の神の子のように映っていた。
一方のジーナは、平坦な声で、そのまま両親に別れを告げる。
「父さんや母さんとおなじで、私も死にたくないし、奴隷にもなりたくない。だから、伯爵様の城でまた働くことにした。給金からミハイロとゾーヤのパン代は出すよ。」
ジーナの言葉を聞いた夫婦は、目に見えて狼狽えた。二人は伏せていた顔を上げ、娘の方を見て声を上げる。
「なっ!!何言ってんだ、お前、そんな、勝手な…」
「そうだよ、伯爵の愛人になったって、すぐ捨てられるだけさ」
年頃の娘が男装し、少年愛者との噂がある伯爵の下で働くと言い出せば、親が引き止めるのも当然である。しかし、ジーナの両親が怒る理由は別にあるのだと理解している伯爵は、硝子のような碧い目玉を彷徨わせながら、黙って成り行きを見守った。
「前の小姓と違って、私は使用人として働いているだけだ。いつまで雇われるかはわからないけど、少なくとも当面、この家にいるより金が入る。父さんと母さんも、その方が得だろ。」
何故両親にも都合のいい話なのに反対するのかと、心底不思議そうにジーナが尋ねる。伯爵も、金に困って娘を売る両親が、なぜ金が転がり込む話を嫌がるのか、疑問に思った。
中年の夫婦は、眉と目を吊り上げ、険しい顔をして、ジーナに怒鳴った。
「駄目だ、お前だけ、贅沢しようってのか!!」
「弟と妹も捨てて、恥知らずな!!!」
伯爵は衝撃を受けた。
(彼らは自分の子供に嫉妬しているのか?)
城で生まれ育ち、優しい実の両親には早々と先立たれた伯爵には、予想もできない感情だ。
ジーナを案じた伯爵は、彼女の方を振り返る。しかしジーナは動じる様子もなく、真っ直ぐ両親の顔を見つめていた。
(たしかに、ミハイロとゾーヤを、この家に、この人たちと置いていくのは気が進まない)
母の言う通り、両親はともかく、ミハイロとゾーヤをあばら家に置いていくことに、ジーナが後ろめたさを感じていたのは事実であった。なので、ジーナは予め伯爵に、弟妹の処遇については相談していた。
「伯爵様は、ミハイロとゾーヤも城に住んでいいって。父さんと母さんは城には入れないけど、家にお金を送るよ。それに、3人居なくなれば暮らし向きはよくなるだろ?」
ジーナは、両親の怒りが多少引くことを期待した。しかし、ジーナの予想と裏腹に、母親は悲鳴を上げ、父親も一緒に、夫婦は伯爵を悪魔を見るような目で睨みつけた。
「私たちから、子供を全員奪う気かい!!!」
鋭い視線と共にそう叫ばれ、伯爵は思わずぞわぞわと怯えてしまった。同時に、違和感を抱く。
(ジーナを売ったり、城で暮らすジーナに嫉妬するなんて、子への愛情も関心もない親なのだと思っていた。しかし…)
何の情もない割りには、伯爵が子を奪うと本気で言ってくるのだ。
「あなた方は…子供達を愛しているのですか?」
伯爵は思わず、心のうちで感じた疑問を唇から零してしまった。
 




