姉弟の帰宅
「彼女の代金代わりに、買っていかれませんか?」
翌朝、執事と伯爵が予想していた通り、商人は別れる前に商品を見せはじめた。
「帝国の法に照らせば払う必要はないと思いますが…買ったのが貴方でなければ再び彼女に会えなかったかもしれませんからね、」
飲み過ぎで頭の痛い伯爵は、商人の策略に嵌るものかと思いながらも、美しい絹織物や宝石、絨毯や衣服への興味を抑えられず、手を伸ばしてしまう。
「支払う必要はありません。伯爵様、ご自分が興味があるだけではございませんか。」
「いや、そんなことは…、」
諌める執事に反論したものの、伯爵自身に購入の意思があることは誰の目にも明らかだった。
「こちらの衣装などはいかがでしょう。」
「素晴らしい刺繍だ、これ程の腕を持つ職人がいるとは…。」
「はぁ………」
結局、伯爵は勧められるがまま興味津々に商品を眺めはじめてしまったので、執事と見張りの兵士以外の一向は先に馬車で待つことにした。
見知った馬の毛並みを整えてやるジーナに、村人出身の兵士が声をかける。
「本当にいいのか?あの商人、かなりの金持ちだぜ。」
「ええ、伯爵様の方が信用できますから。」
「そうか?」
「あれ程お人好しで、物好きな貴族はいませんしね。」
淡々と答えるジーナに、意図を勘違いした兵士はにやりと笑って言った。
「お前も中々の悪人だな。まあ、俺も伯爵様に賭けてるぜ。」
(伯爵の善意を利用していることに変わりはない。)
ジーナは兵士の言葉に何も返さず、彼が積荷がないか伯爵たちの所へ行った後も、ジーナは無言で、馬の毛をすきつづけた。
結局、伯爵は香辛料だけ買って、馬車に積んだ。領民たちに配ろうと思ったのだ。ミハイロは商人と話し込んでおり、ジーナが襟を引っ掴んで連れて行った。
帰りの馬車の中、ミハイロは姉に甘えたかったのか、ジーナの隣にくっついて座り、すぐに寝た。ガタガタと馬車が悪道で揺れる中、ジーナが静寂を打ち破る。
「今回は、大変お手を煩わせました。申し訳ございません。」
ジーナは、伯爵が自分をわざわざ連れ戻しに来ると思っていなかった。あの家にいても飢え死に、逆らって逃げれば命が危ないと思い、奴隷商人らしき男に抵抗せずついていったが、結果的に伯爵に手間をかけたことを、彼女は自分の失態だと認識していた。
昨日の交渉も、ジーナとしては本当に条件を聞いていただけで、今覚えば図々しいことをしたものだと反省している。
「何をいってるんだい、これは私の責任だから、君が気に病むことはないんだ。君には助けてもらっているし。」
伯爵は大きな目を見開いて、ジーナに言った。
「男爵の一件といい、今回といい、助けていただいた覚えしかありませんが。」
「それは私が伯爵という身分を使える成人だからさ。十以上下の平民の君に、私は救われてばかりだよ。」
笑顔で申し訳なさそうに笑う伯爵の顔を見ても、ジーナには彼を助けた記憶が思い当たらない。
(ああ、溺れかけたこの人を助けた時か?)
隣で眠る弟の顔を見て、ジーナは一つだけ思い出した。
城に着く前、伯爵はジーナの家に寄ることにした。流石に、いくらあの親とはいえ、ジーナとミハイロを無断で家に帰さないことは、伯爵の良心を蝕むからだ。
ジーナは伯爵の城に戻ることになったが、ミハイロについては、唯一の男手になる彼を売ることはあるまいし、ミハイロ自身も家に残りたいというので、彼は帰すことにした。
本当は、伯爵は子を売る親の家にジーナもミハイロもその妹も置いておきたくなかったが、曲がりなりにも2人の親から子を奪い取ることも気が進まず、特に身が危ないジーナだけ、一先ず保護することで妥協したのだ。ジーナとミハイロによれば、両親が彼らに手を上げることもあるが、命の危険を感じたことはないという。そして末の妹には、母親はやや甘いということだった。
伯爵たちの馬車は、村外れの森のそばに着いた。ジーナの家の近くである。一行はまず、ミハイロに家の戸を開かせて、伯爵たちは離れて様子を見ることにした。
「ただいま。」
ミハイロは、戸のそばの木椅子に座る父親に声をかけた。片足に粗末な義足を嵌めた父親は、片手に酒瓶を持っている。
「遅かったな。」
息子の数日の不在に気づかなかったかのように、父親は自然にミハイロを受け入れた。窓の下で聞き耳をたてる伯爵たちは胸を撫で下ろした。
しかしすぐに、気怠げな声は怒声に変わった。
「何!?魚もとってこなかったのか!!!誰が遊んで来いと言った!!!」




