少女の未来
イサークの言葉を聞いた瞬間、伯爵の鼓動が大きく鳴った。
イサークが言ったことは、伯爵が心の片隅でずっと考えていたことだった。男爵よりも胡散臭い笑みを張り付けた男の顔を見る、伯爵の頭の中で、無数の思考が駆け巡った。
(この商人のことは信用しきれない)
(しかし、彼について行った方がジーナのためかもしれない)
(このまま彼女を連れ帰って、私は彼女の人生を、城の使用人や小姓がわりとして終わらせるのだろうか)
(ジーナはあの村で、城で、この先‥幸せになれるのだろうか)
伯爵はジーナの反応を知るのが恐ろしくて、彼女の様子を見られなかった。もしかしたら、ジーナは、イサークに頷いているかもしれない。そんな未来も自分にあるのだと、目を輝かせているかもしれない。
(でも…ジーナの未来は、私が決めることでも、この男が決めることでもない)
伯爵は、おそるおそる、頭を下げて、ジーナの表情を確かめる。
ジーナは、相変わらずの無表情だった。
伯爵は、勇気を出して、ジーナの凪いだ目を見て尋ねる。
「ジーナ、ど、どうしたい?君が彼についていきたいのなら…私は…止めない…。」
初めからどもっていた伯爵の声はどんどん小さくなっていき、最後は、至近距離にいるジーナがなんとか聞き取れるぐらいの小声になっていた。ジーナは伯爵の目をまっすぐ見て、淀みのない声で尋ねる。
「私が今、城に帰ったら、また、雇っていただけるのですか。」
相変わらず感情の分からない声だったが、希望を持った伯爵は、すぐにジーナに答えた。
「勿論、君が望むのなら…。」
ジーナは、淡々とした声で質問を続けた。
「小姓として、お城に住まわせていただけますか。家に戻ると…またこのように、伯爵様にご迷惑をかける可能性がありますので。」
「ああ、もう家に帰れなどと言わない!」
伯爵は地面に膝をつき、少女の肩に手を乗せ、その目を見て頷きながら答える。余りの必死さに、もはや領主としての威厳の欠片もない伯爵を、兵士たちは憐れむような目で見つめる。そもそも、幽霊伯爵に威厳があったこともないのだが。
「ずいぶん控えめだな。もっと搾り取ったらどうだ?」
黙って二人の話を聞いていたイサークが、伯爵にも聞こえる声の大きさで、ジーナに耳打ちする。
「私は伯爵様から搾取する気などありません。出すぎたことを言いました、」
ジーナは商人の言葉に微かに眉を寄せ、伯爵に向き直って謝罪しようとする。しかし伯爵はジーナの言葉をさえぎり、まくし立てた。
「たしかに、商人の下で働いた方が君はいいかもしれない…海も見られるし…でも、私は君という友人に側にいて欲しい…!そ、そうだ、君が十分知識をつけたら、帝都で学ぶ費用も出そう!!君は物を覚えるのが早いし、適切な教育を受けるべきだと思っていたんだ!!!帝都に行けば海も見られる……黒い海の方が美しいとも聞くけれど……」
伯爵は青い大きな目をぎょろぎょろと彷徨わせながら、特にジーナが望んでいない褒美をどんどん提案する。ジーナは、自分よりはるかに高い身分の男を見下ろしながら、平坦な声で疑問を口にした。
「伯爵様、私はただの貧しく無学な平民です。そのような人間にお金をかけてどうするのですか。」
「いえいえ、私は間違っていないと思いますよ。投資先の分かっている御方だ!」
そこで商人が伯爵をおだてるように口を挟み、その通りだと伯爵が頷く。ジーナを止めるのに必死な伯爵は、いったいそもそも、誰と自分が交渉していたのかも忘れていた。
ジーナは無言で二人の様子を眺めた後、伯爵の血色の悪い顔を見て、静かに言った。
「前のように働かせていただけるなら、それだけで過ぎた御恩です。私の我儘を寛大にも聞いていただくのですから。」
「ジーナ…!」
伯爵と少女の目が、互いを見つめあう。少女の健気さに感動した伯爵の頬には、涙が伝っていた。一方、伯爵以外の従者たちは、この少女は結構太い神経を持っているなと思っていた。
「さて…、話はまとまりましたね。ああ!本当に、惜しい人材だ。しかしこれも神の定めた運命、私は諦めましょう。」
しばらくして、商人が手を叩き、一同の注意を引き付けた。イサークは黒い目を細めて、相変わらずニコニコと微笑んでいる。そして、人差し指を立てて、伯爵たちに問いかけた。
「ところで皆さん、お腹が空いているのではありませんか?・・・今夜の宿は、もうお決まりで?」
たしかに、伯爵一行には宿もなく、全員、空腹を抱えていた。




