伯爵の懇願
城に戻ってきてすぐ、伯爵は寝台に潜り込んで眠ってしまった。ジーナや執事や使用人、兵士たちに説明しなければならないことは山積みだったのだが、ろくに散歩もしない彼にとって遠出の負担は大きく、またジーナの両親との問答は大変な心労を彼にもたらしたのだ。他方、使用人たちは伯爵はいつものことだと放っておいて、ジーナが戻ってきたことを歓迎し、主人のいない食卓で、勿論伯爵の許可付きではあるが、城の酒を持ち出してささやかなパーティーを開いた。小屋もまだ建っていないため、一人ジーナの家に取り残されている兵士の存在は、皆忘れていた。
「有り難いことですが、大げさではありませんか。」
ジーナが身売りされた話を聞いて涙を流したり憤ったりする感受性の高い老人たちや、ほぼ傍観していただけにも関わらず活躍したと吹聴する兵士たちを冷めた目で見ながら、ジーナは執事に聞く。
「お前がいなくなってしまったらイヴァン様は一生あのままかもしれないと、皆気を揉んでいたからな。戻ってきてくれてありがたいのだよ、私も含めて。遠慮せず飲みなさい。」
執事はジーナへの感謝を込めて、高価な酒を彼女のグラスに注ぐ。少女は前から、伯爵と長い付き合いらしいこの老人が自分をやたらに買い被っていて、自分の跡を継がせようとしていることを感じていた。確かに、伯爵の言う帝都へ行けということよりは、この城で執事の仕事のようなことをするほうが、ジーナにはあり得そうに思える。執事の振り回されぶりを見るに相当骨が折れるだろう。一方で、ジーナからすれば、伯爵はもう、執事が思うほど彼女や人の手を必要としているようには見えない時もある。
(伯爵が自分の足で立てるようになったら、私はどうなるだろうか。もっといい生まれ育ちの、文官を雇えるようになれば…。今は人見知りの伯爵はそんな気があるようには思えないが。)
彼女の帰還を口実に飲み騒ぐ大人たちの笑い声が響く中、ジーナは彼女には弱く思える酒を飲みながら、今まで考えたこともなかった、明日や来年より、もっと先のことを考え始めた。ジーナは自分の意思でこの村を少しの間でも離れることを考えたことがなかった。そんな実現不可能なことは、考える必要もないと思っていたからだ。
その夜、ジーナは海辺で亡き兄と語る夢を見た。兄はとても大切なことを話していた気がしたが、朝起きた時にはもう、何を聞いたのかジーナは思い出せなかった。
ジーナの家は強引に隣に兵士の常駐する小屋を建てられ、彼らの手伝いをする兵士は多忙であったが、城の中ではしばらく平穏な時が流れていた。ジーナが伯爵の書棚に並ぶ本を読めるようになりたいと言うので、伯爵は喜んでまず空き時間に彼女へ簡単な内容のものを読み聞かせることから始めた。伯爵はジーナの様子をいたく気にしているようで、数日休んでから仕事を始めたらどうかと勧めたが、ジーナは毎朝薪割りをする程元気だった。それどころか、久しぶりに農作業をした際に身体が鈍っていると感じたために、より精力的に力仕事も手伝った。
一週間近くたったある日のこと、伯爵は夜、自室を出ようとしたジーナを引き留めた。そして、彼女に寝椅子に座るように促し、ぐるぐると落ち着かない様子で部屋を二周程回るという不可解な行動を取った後、人一人分空けてその隣に座り、意を決して口を開いた。
「君の、お兄さんのことなのだが…。」
伯爵はそこで口を噤んでしまったが、ジーナには、続く言葉がわかっていた。
「家で、言った通りです。」
彼女は平然と、変わらない声と表情で答えた。しかし、伯爵は、いつも真っ直ぐ自分を見つめてくる瞳が、目の前を見ていないことに違和感を感じ、確信を持って指摘する。
「あの時言ったことは、嘘なんだろう…?」
伯爵の声色は優しく、少女を責めるものではない。
「そう思われますか。」
ジーナは表情を変えず、尋ね返す。
「…ああ。」
伯爵は、少女から目をそらさず、頷く。伯爵は、この感情表現に乏しい少女の心の動きを読み取ることを、この数週間で少し学んだ。本人は言わなかったが、母親と家に帰るように言った時、ジーナは伯爵の目に、恐らく、城に留まりたいことを訴えていたのだ。伯爵がいつも平坦な声のジーナから強い意志を感じるのは、その目が鋭い輝きを宿しているからだ。しかし、彼女は兄のことを話す時、遠くを見ている。ジーナの言う通りイーゴリが彼女を助けるために亡くなったのなら、ジーナは真っ直ぐ自分の目を見てその死を語るだろうと、伯爵は考えた。彼女は兄の死に罪悪感を感じても、兄の勇気ある最期を伯爵に伝えるだろうと思ったのだ。
「君のお兄さんの名誉のために、君は…真実を話さないでいるのかい?」
伯爵は、自らの推測を震える声で言った。少しの間、静寂がのしかかり、時計の秒針の音だけが響く。沈黙を、ジーナを傷つけたと解釈した伯爵が何か言おうとした時、少女が静かな声で言った。
「気づいておられるのですね。私が口に出さずとも。」
己の推測を肯定する言葉を聞き、伯爵は一瞬、息を詰まらせる。
「ならば、わざわざお伝えする必要も、ないでしょう。」
少女は目を伏せ、素っ気なく答える。拒否の言葉に、伯爵は彼女に無理強いするべきではないと思いつつも、懇願するような表情で訴えかける。
「私は、憶測ではなく、君自身の口から、真実を聞きたい。…お兄さんの死は、君一人が背負うべきものではないと思う。わ、私が…君の信用に足る人間かは分からないが…領主として、私も背負わなければならないと思っている。」
少女は、仄かな橙色の光が揺れる青灰色の瞳を見つめる。たまに寝不足と疲労で血走っていて、平常はぎょろぎょろしていて不気味と評される伯爵の目玉は、こうしてよく見ると案外綺麗である。
(伯爵以外の領主も、一人の農民の死など気にするのだろうか。)
ジーナには他の貴族は男爵ぐらいしか話した記憶がないが、彼女が周りから聞いた話に基づけば、そのような領主は奇異な存在だ。ジーナは小さく首を振って、伯爵に告げる。
「伯爵様が背負うことでは、ありません。」
再度の拒絶に、眉を下げて悲しい表情をしながらも、伯爵は根気よく、彼女にとっては大きな世話であることを承知で、ジーナの前に跪いて頼み込む。伯爵にも、ジーナにはまだ言えないことがあり、彼女にそれを背負わせる気も無い。否応なく背負わさざるを得なかった執事にも、話したくはなかった。だから、ジーナが黙る気持ちは伯爵にも理解できる。しかし同時に、もし誰も自分に近しい人間が重荷を分けてくれなかったら、とうの昔に自分は潰れていたかもしれない、と伯爵は思う。ジーナが軽々背負っているように見える十字架は、伯爵にはとても重いものに見える。ジーナはまだ十五だが、彼よりも強い心を持っている。それでも伯爵は、その十字架がいつか彼女を潰してしまわないか心配で仕方がないのだ。
「君は、そう思うかい。それでも…私にも、背負わせてほしい。もし、村人や家族に伝わることを気にしているのなら、君が望まないなら決して口外しないと神に誓おう。」
少女は、自分よりはるかに上の立場でありながら、目の前で膝を折っている奇妙な青年をじっと見る。ジーナには、男爵の一件と今回の騒動で、気づいたことがある。イヴァンは本をたくさん読んでいるし、文字も綺麗だし、ジーナには分からない難しい議論を時折執事や、ごく稀に訪れる他の貴族としている。しかし彼は、馬鹿だ。伯爵がイーゴリのことを聞いたら、何日も寝込んで、また魘される悪夢のレパートリーが増えるに決まっている。だというのに、何故、伯爵は、苦しみたがるのか、ジーナにはよく分からない。
もう一つ、ジーナは最近知ったことがある。ジーナは自分より10以上年上の男性である伯爵を、非力と憂鬱質から弱い人間だと思っていた。それはジーナだけでなく、伯爵と初めて接した大半の人間が抱く感想である。それが最近、ジーナには伯爵が時折自分より強い人間に思える時がある。権力や武力のためではなく、彼の砕けやすい殻の内側には、意外に堅い身があると感じるのだ。
この愚かさが、彼の強さの一部なのかもしれないと、ジーナは今も彼女の反応を怯えながら待つ主人を見て思う。そして、彼の強さは、ジーナの弱さも映し出す。ジーナは自分の弱さに、打ち勝ちたいと思った。幼いジーナは、兄の死の真相を隠すべきだと考えた。それは、兄の魂の平穏のためであり、その死後の名誉を守るためだと、理由づけていた。しかし、それだけが理由ではない。
ジーナは伯爵に言葉を返そうとして、声を発する前に、喉に、何かがつかえるのを感じた。胸のあたりも重い。いつもはっきりと喋る彼女がこんなにものを話すことに苦労するのは、初めてだった。
「真実を隠していたのは、兄のためではなく、自分のためです。そう思ったほうが、楽だったから。私は、真実と向き合うのが、怖かった。」
伯爵は、黙ってジーナの言葉に、耳を傾けている。ふといつも気にしたこともない、伯爵が壁にかけている聖画がジーナの視界に入る。伯爵の部屋には聖職者はいないが、ジーナは教会で痛恨を行なっている心地だった。ジーナは、神と兄に詫びるため、真実を口に出す。
「伯爵様がお考えの通り…私の兄は、自ら命を絶ったのです。」